遊び至上主義の人生論

36歳になってしまった。干支が3周まわってしまった。
誕生日には、自分が生き方をどのようにとらえているか文章化することが恒例になっているので、その36年目バージョン。

結論から言うと、「あまり難しいこと考えずに遊んで生きるのが一番幸せなんじゃないの?」になるんだけど、それだけ言うと怒られそうなので、遊びの定義から説明してみた。自分は複雑で難しいものの見方をできるような高等な脳を持っていないので、出来る限り単純化して考えるクセがあり、今回もそうやっていった結果出た結論である。かなり自己満足な内容なので、物好きな人だけ読んでみてください。

 

■遊びは真剣にやるもの

仕事と遊び、どちらが真剣にやるものか、と問われれば、間違いなく遊びであろう。
なぜなら遊びは真剣にやらなければ成り立たないものだから。義務は一切なく、いつやめてもいい、それで報酬が得られるわけでもない。だからこそ人は本当にやりたいことを真剣にやるのだ。

でなければ筋肉痛で動けなくなるほどスポーツをしたり、徹夜でゲームをするなんてことはできないだろう。遊びに「仕方ないからやる」という状況はあり得ない。やりたいから全力でやるのだ。全力でやるから子供は積み上げた積み木が崩れた時に涙を流す。

一方仕事は、義務や報酬が発生する代わりに、真剣にやるものではない。
なぜなら、最小の労力で最大の利益を上げることがビジネスの本質だから。同じ結果ならば、24時間必死に働く人間より、1時間働いて23時間寝てる人間のほうが上なのだ。

義務である以上、当然「仕方ないからやる」という状況は成り立つものであり、大多数の人は仕方なくやっているものであろう。課された義務を果たすことが目的で、そこに真剣さは必要ない。仕事に真剣さや努力、成長などを求める人間がたまにいるけれども、部下を動かすための常套句としてはそこそこ有効だとは思うが、仕方なくやっている作業でそれを自分に求めるのはちょっとお門違いだ。もちろん義務を果たす過程で、真剣にやらざるを得ないことは多々あるだろうし、それで成長することもあるであろう。しかしビジネスの目的は実質的にそれらとは関係ない。

でもごくまれに、真剣に仕事をしている人がいる。
それは仕事自体が「遊び」になっている人だ。ゆえに彼らはまるでゲームをするかのように仕事を楽しみ、あり得ない労力をかけて働くのだ。人生自体を仕事に捧げ、働きすぎて若くして早死にしてしまう人もいる。

 

■いかに遊んで生きるか

そうやって仕事で全力で遊ぶ人たちを、人々は尊敬し、活躍すれば一流と呼び、結果が出れば成功者と呼ぶ。そして彼らの言葉や書いた書物を有り難がってあがめる。

最近でいえばスティーブ・ジョブズだろう。彼の早すぎる死の直後に売り出された自伝は世界的ベストセラーとなり、彼の大学でのスピーチはすでに伝説となっている。見たことがない人は一度見てみればいいと思う。きっと何か感じるものがあるはずだ。

 

このスピーチで「Stay Hungry, Stay Foolish」という締めの言葉が、ジョブズの有名な言葉となった(正しくは彼が考えた言葉ではない)。この言葉に関してはいろんな解釈がされているが、僕は単純に「臆せず遊べ!」とジョブズは言っているのではないかと解釈している。

仕事を遊びにできない人、人生を削れるほど熱中できない人は、いくらジョブズの言葉に感動したとしても、それを仕事に活かすことはできないであろう。どんなに立派な職業であれ、仕方なくやっている仕事で自己実現を目指すなんてことは最初からできるわけがないのだ。義務感で全力が出せるほど脳は都合良くできてはいない。
とはいえ世の中で売れているジョブズに関する自己啓発本の需要は、そんな人たちに支えられているのではないだろうか。多分真面目で一生懸命で、自分の仕事を何とかポジティブな方向に持っていきたい人たちが多いのだろう。しかし、仕事という概念の中でものを考えている以上、「Stay Hungry, Stay Foolish」を具現するのは不可能に近い。

だからまずは真面目の鎖を外して、遊んじゃえばいいんじゃないの?と思う。
仕事とかプライベートとか、ONとかOFFとか、公とか私とか、様々な「区切り」を一度全部取っ払って、「自分は今遊んでいるか?いないか?」の一本に絞って人生を見つめればわかりやすいんじゃないの?と思う。

 

■遊びを仕事の上位概念に

ジョブズ、手塚治虫、アインシュタイン、レオナルドダビンチ。僕が感銘を受け、尊敬している人たちに共通していることがある。彼らは偉業を果たしたゆえ、様々な言葉で賞賛されるが、単純に考えれば彼らはただ遊んでただけなんじゃないか、としか思えないのだ。彼らの偉業に対する情熱やエネルギーを考える時、そこに仕事(ビジネス)という概念で囲って解釈することはとてもできないし、彼らの遊びの中にたまたま仕事があった、遊びが仕事の上位概念になったとしか思えない。そんな人のエネルギーに、宇宙は反応するようにできているというのは言い過ぎだろうか?

僕はこれからは従来の仕事という概念を通して人生を考えるのは、もう時代が許さなくなってきたと思っている。なぜならどういう形にせよ、仕事というものは今世紀中に人間の手から次々と離されていく運命だから(この辺について説明すると別記事が書ける程なので省略する)。この流れを無視して、「仕事」にこだわる人は今後厳しくなってくるだろう。仕事はお金を運んできてくれるが、生き甲斐や楽しさを一緒に持ってきてくれるものではない。仕事を遊びに変えるか、遊ぶために仕事をすると割り切るか、意識を変えない限り、「仕方なくやっていること」に時間はとられ続けることになるだろう。

宇宙が始まってから137億年、地球に生物が誕生してから40億年という途方もない時間の中で、僕ら人間の一生なんて本当に一瞬だ。できることなんてほとんどない。しかしその中で、いかに自らの心に従い、与えられた能力のフルスペックを使い生きるか、僕はそこに人の幸せの本質があるように思えてならない。それは子供が遊びに熱中するのと変わらない「情熱」であり、それを大人がやった時に生まれるパワーは底知れない。それは社会で合い言葉のように出てくる努力や勉強、成長と言った義務感をごまかしたような言葉とは真逆のエネルギーだと思う。

いかにして遊んで生きるか、そう考えた時に、人はクリエイティブになれる。本当の意味で自由と向き合い、生きていくことができる。ジョブズにも負けないエネルギーだって得られるだろう。

だから遊びにいちいち目的や意味を考えないように、生き方にそれらを求めることはもうやめたほうがいい。物事が遊びに変わった瞬間に、賢さを装うために切り貼りされた無駄な言葉たちはきれいに吹き飛ぶ。「Stay Hungry, Stay Foolish」という言葉すらどうでもよくなる。とにかく全力で遊ぶのが一番だ。遊びなら普段は怠け者の脳も身体も喜んで全力を出してくれるだろう。きっと宇宙はそれを望んで僕らに時間を与えている。

 

てことで今年もシーラカンスの言葉だけに従って遊んでいきますよ年男。

 

ちゃんとオチを去年の誕生日の記事とリンクさせたところで、おしまい。

↓遊べば世界も変わっちゃうかもね。遊べばみんな天才だよ。

 

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