反体制文化不在とノームコアと

下記のLifehackerの記事、トム・ディクソン氏のインタビューの一節を切り取っただけの記事だけど、非常に響く内容だった。

トム・ディクソン:もはや反体制文化など存在しない | ライフハッカー[日本版]

私の持論では、全てが認められている現代において反体制的になることはほぼ不可能です。メトロポリタン美術館でパンク展をするような時代です。もはや許可が下りないものなど無いのです。ファッションでも家具でも全てが合法化され過ぎています。世に出て、誰かのブログに書かれる頃にはもはや反体制的ではないのです。

確かにここまで何もかも認められてしまうと、もはや反体制、カウンターの価値は消滅してしまう。

これってファッションとかアートとか、ムーブメントを作り出すことで価値を語ってきたジャンルには由々しき事態だと思うのよね。ムーブメントとは少し乱暴にいえば、体制に逆らう形で登場したカウンターが次の体制を作っていくような、波のように下克上を繰り返すシステムで、そういう対立構造を作ることによって、それぞれの立ち位置を確保してきたものだと思う。

不自由で、不公平な世界があってこそ、自由を主張するファッションやアートに価値があったし、権威に立ち向かう姿勢に価値があった。「言いたい事も言えないこんな世の中じゃ〜」だったからこそ、その代弁者の記号として価値があった。

しかしディクソン氏の言うように、情報化社会は全てのものに評価(存在価値)を与え、フラットにしてしまった。いってみれば何にでもいいねボタンを押されてしまうような世界では、既存の価値、立ち位置を作る今までの方法は、砂の城状態だ。

今、NYでは「ノームコア」というものがブームだそうだ。ノームコアとは、ギャップやユニクロのような、どこにでもあるような普通の服を着る「ファッション」なんだそうだ。

僕はファッションには詳しくないので断言はできないけれど、これってもうブームなんじゃなくて、ファッション自体に価値がなくなっただけなのではないかと感じてしまう。ファッションで主義主張をする必要がなくなってしまえば、あとは服の機能性という価値だけが残る。それだったら、ギャップやユニクロの服で十分だ。

車や電化製品が売れなくなった理由もこれで、ファッションという広義な記号的価値を失った今、物で自己を主張することはもう時代遅れで、そんなものに金と労力を使うくらいなら、自分の好きなことに集中したほうが合理的だと考えるようになるのは当たり前の流れだろう。

反体制文化のなくなった世界、「いろんな考えがあっていいと思うんだ」という世界では、その自由の代償として、小手先のマーケティングは通用せず、ブランディング(価値創造)は容易ではなくなってしまった。というか、そもそも価値って何?ってところから改めて考えることが必要なんだろうね。

おしまい。