なんでそんなに苦労が好きなのか問題

自分は幸か不幸か、日本で育ちながら、日本のシステムから離れた場所で生きてきた。受験はおろか受験勉強すらしたことがないし、部活もほとんどやってないから、先輩後輩な学年制カースト制度も経験していない。大学はアメリカで、帰国後3回転職したとはいえ、就活らしい就活もやっていない。

子供の頃からなんか周りに馴染めてないなとは思っていたけれど、今考えれば制約に縛られず自由にものを見たり考えたりできたのは幸運だったと思う。そんな自分が未だに日本人について解せない部分が、日本人の真面目さと勤勉さの裏に存在している「苦労」に対するメンタリティだ。

■苦労至上主義

「日本人は我慢と忍耐をするために生まれてきて、人生の目的は苦労し続けて死ぬことなんじゃないか」と冗談抜きで思うことがある。そうとでも考えないと理解できないのだ。

なぜならこの国では自由への渇望感がある一方、自由に生きる人間を認めない風潮が確実にある。どこかで制約され、苦労をしている人間でないと仲間に入れない・入れない。具体的に言えば、組織という制約に入り、それが合理的であろうがなかろうが、一定の苦労をしていない限り、社会の一員として認められないのだ。豊かになったにも関わらず、社蓄という言葉が流行ったり、あり得ない重労働を強いるブラック企業がこれだけ存在してしまうのは、お金以外に、どこかで「苦労している」という証明書がないと、社会に対しても、自分に対しても、アイデンティティを保つのが難しいからではないだろうか。

日本人の真面目さ、勤勉さの裏には、そういう「苦労至上主義」みたいなものがあり、そこから少しでも逸脱すると、社会で生きていけなくなるという恐怖心が見てとれる。外国から見れば、日本は「安心して暮らしていける社会」であろう。しかし人々はけっして安心しておらず、常に恐怖心を持って暮らしている。それは餓死したり、殺されたりするという物理的な恐怖心ではなく、コミュニティに属せなくなるという暗黙の恐怖心だ。犯罪で殺される人は世界的にみれば少ない代わりに、自殺で亡くなる人が圧倒的に多い要因もここだと思う。

■苦労の同調圧力

「苦労(努力)をしていない人間はダメだ」。日本で暮らしているとたまに聞くフレーズである。ある意味正論であろう。しかし、どうやらこの苦労至上主義的フレーズは、見事に拡大解釈され、合理的でない苦労や我慢、義務の範囲を超えた奉仕を、他人や自己に課すことに正当性を与え、「苦労や努力をしているように見えない」人間を卑下したり、仲間外れにする理由にもなってしまっているようだ。苦労の同調圧力と言ってもいい。

そうやって相互監視して見えない鎖を掛け合っているから、いつまでたっても自由に生きることができない。この点については、海外の文化を知っている多くの人々から指摘されている部分であり、これを「努力教」と表現した人もいたが、言い得て妙だと思う。この日本人の苦労・努力への信仰心は、それを知らぬ者から見ると、宗教的、更に悪くいえば病的に見えてしまうのも仕方がない。

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■少しでいいから変わらないか?

この苦労に対するメンタリティで、日本人が幸せになっているなら文句はない。正直ついていけないと思っている僕は、外野でひっそりしているだけでいいと思う。しかしどう見ても、今の日本人はそれで苦しんでいるようにしか見えないのだ。

こういう日本人のデメリット的な文脈を前置きして、「だから欧米を見習うべき!」みたいなロジックをたまに見かけるけれど、僕はそういう白か黒かみたいな言い方には賛成できない。なぜなら根本的な解決にならないから。文化が違う、ってよりも、長い歴史を経て、積み上げられてきた欧米の個人主義的な思想が、土壌が全く違う歴史と文化を持つ日本にいきなり輸入されてしまったことが問題の一因だと思うし、前述したように、日本は(欧米よりも)人々が秩序正しく生活しており、インフラも治安もいいとても暮らしやすい国だ。この良い部分は保持した上で(日本でに合った形で)もうちょっと良くできないかと思うのだ。

だから、「日本国」や「日本人」という大きな塊に対して「こうあるべき!」みたいなことは言いたくない。このブログを読んでいる方々に「個人として」少しだけ考えてみてほしいのだ。上記に書いた日本人の行き過ぎた(現状に合わない)苦労至上主義や、その影響で不自由になっている部分は、多かれ少なかれ誰でも感じていることであろう(多分)。できればそれを「そういう文化・国民性だから」とか「社会とはそういうもの」みたいに集団の責任として逃げずに、少しずつでいいから自分たちで自分たちの生活や考え方を良き方向にシフトしていけないものかと思う。

もちろんそれに対する具体的な方法論はない。それは意識の問題だから。自由を「不真面目」や「怠惰」だと思っていたり、自分で選んで行動することを「身勝手」や「自己中心的」と無意識にレッテルを貼ってしまっていないだろうか? そういう無意識の免罪符としての「苦労」を選んでしまっていないだろうか? それを自分に押し付けるように他人にも押し付けていないだろうか? 縛っているのは、他人でも環境でもなく、そういう「意識」だ。

そもそも人は苦労せず、努力せずして生きていくことはできない。問題は自分の限られたリソースをどう使うか、という話である。僕らは何にでも全力投球できるほどの力は持っていないゆえ、何を目指し、どういう行動をするか、で人生は決まってくる。そしてそれを実行するのは自分であって、他人ではない。そういう意識で、個々人が少しずつシフトチェンジしていけば、少しはいい方向に持っていけるのではないかと思う。多分、みんなもっと自由になりたいはずだ。コミュニティの証明書や免罪符のためではなく、自由のためにリスクをとった苦労というものをもう少しやってみたらどうだろうと思う。そして僕もやっていこうと思う。

おしまい。

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