才能とは反復できること

才能の定義なんて今までは正直どうでもよかったけど、子どもができると「この子の才能をどう伸ばして、いい人生を送らせるか」なんてことを、かわいい寝顔を見ながら思ったりしてしまう。それで考えた結果、「極力何もしないことなんじゃないか」なんて答えが出てきたので文章にまとめてみる。

僕は16歳の時から社会人になるまで、専門分野に特化して学ぶ学校に通っていたため、各分野の能力が際立った人たちと接する機会が多くあった。普通の人からは「すごい才能がある」ように見えるのだろうけど、実際は彼らはただ自分の好きなことを、普通の人よりも多く反復しているだけだったように思う。小さい頃から同じことをやり続けてきて、それが生活の一部となっているわけだから、人より抜きん出て「できる」のは当然のことだろう。

要するに才能とは「反復できること」であり、それは本人の意志だけではなく、「環境」も大きく関わっているため、その意味でいえば「天から与えられたもの」といえると思う。なぜなら「反復してやりたいもの」というのは環境が与えてくれるもので、そして「反復し続けられるか」というのも環境によって決まるから。

僕は今6歳の息子がいるが、当然彼の才能を伸ばす環境を与えてやりたいと思っている。その環境とは、彼の反復を止めないことであり、必要以上に関与しないこと、ともいえる。

子供は好奇心の塊だから、好きなものを見つけたら必ず反復し始める。外側から見れば、同じことを繰り返しているようにしか見えないが、本人の中では、繰り返しの中で学び、課題を見つけ、それを克服するというサイクルを繰り返している。そして満足したところで、次の反復へと移っていき、経験を通して様々な知識を獲得していく。その中でとりわけ長く続く反復が彼の才能、得意分野を形成し、そして反復した別々の知識は点と点で繋がっていき、次の興味・好奇心へと広がっていくのだと思う。

このサイクルは子どもが勝手にやるもので、親が口を出すものではない。しかし残念ながら、前述したように反復とは同じことをやり続けることで、外側から見ればあまり生産的な行為に見えないゆえ、親が反復を止めてしまうことが多いように思う。そうやって才能の芽は潰されてしまう。もちろん社会で生きていくためには、やらなければいけないこともあるだろう。しかし反復を完全に遮断してまで押し付ける合理性というものは親のエゴであり、そのエゴによって得るものも得られなかった人や、大人になって苦しめられている人が、この日本の社会には一定数いるのではないだろうか。

僕が両親に一番感謝していることは、思う存分反復できる環境を与えてくれたことだ。それによって好きなことを職業にできたことはもちろんだが、それ以上に、好奇心が向いたものに関しては素直に反復できる「体質」が、自分の人生を前向きにしてくれていることは間違いないように思う。そしてこの環境を与え続けることは、親としてはそれなりの勇気と根性がいることも教えてもらったので、今度は僕がそれを息子にやってやる番だと思っている。

「才能」というの言葉が、「能力の高さ」を指しているならば、たいていの能力は数をこなすことでつくものであり、それは反復という単純な行為に結びついているものだと思う。つまり、才能とは反復できることであり、いかに反復できる環境が得られるかで決まるものだと僕は考えているのだが、皆さんはどうだろうか?

 

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