言語性と深層心理の関係から考える今年の目標

新年や新学期など、節目の時に、または形式的に自己紹介しないといけない際に、必ず目標とかゴールを聞いたり聞かれたりするのは、日本もアメリカも変わらない。その度に冗談を言ったり、適当に耳障りのいいことを言って流してきたが、自分には正直、目標のようなものはない。というより、わざわざ目標を考える必要性を感じないのだ。

目標はないけどやりたいことはいろいろあるので、とりあえず行けるところまで行く。それは何か一つのゴールという具体的な終着点があるわけではなく、ただ自分がこれをやりたい、ここに行きたいと思ったことに素直に従って動くだけである。その一つ一つを見れば、死ぬまで頑張るかもしれないし、明日気が変わって違うことをするかもしれない。

そう考えると、いわゆる世間ウケするような、目標らしい目標を言語化してしまうのは、ウソにもなり得るし、自分を縛る要因にもなりかねない。何より言葉という不完全なメディアにしてしまうのは、やりたいというプリミティブな気持ちを陳腐化させ、原動力をそいでしまうような危険すら感じる。

人間は言葉によって認識し、知能や感受性を高めてきた生き物だが、悲しいかな言葉には限界があり、それが(表層的な)人間の限界であるともいえる。しかし人間の中には深層心理という、非言語な心の原風景が広がっており、深層心理こそが、宇宙の中の「一生物」としての自分の原動力なのではないかと思っている。それは理論性や善悪、損得感情という社会的な整合性を超えた、ある種の自分の「役割」を司っており、「なぜ自分はここに有るのか」の答えは深層心理が解っている、というのが今のところの僕の仮説だ。数年前にそれをシーラカンスという表現でポストしたこともある。

社会生活を営む上で言語は必要不可欠だし、僕自身ロジックがとても好きな人間だ。しかしそれは物事を他者や自分に理解させるためにあるもので、自分自身を完全に納得させるには到底役不足だ。言葉はお金や道具と同じように、単なるツールに過ぎない。生きていくためには大変有益なツールだが、万能と呼ぶにはほど遠い不完全なものだ。

だから僕は自分の生き方を、目標やゴールという言葉の範疇に収めてしまうことには抵抗を感じる、というか無理な話だと思うのだ。人間の頭の中での整合性や、期間を設定した上で「ここまで」と線を引く行為は、これから訪れる未来や、自然界、更には自己のランダム性の中では極めて無力だ。

人は他人に説明するために生まれてきたのではなく、自分を納得させるために生きているのだ。生きている間、ただやりたいように変化するだけである。それを突き詰めて考えていくと、外部からの入力なしに、行動の引き金になる興味や好奇心は生まれないので、自分が行動しているように見えて、実は(外部から間接的に)行動させられている、つまり、一生何かに流されているのではないかという仏教的な見地にたどり着くのだが、この話は長くなるのであとで書こう。

ということで、今年の目標をあえて書くなら、有言実行の逆の「無言実行」にでもしておこう。前述したように、言葉はツールなので、目標の言語化が機能する場面では、明確なゴールと戦術をロジカルに組み立ててプレゼンでもしようと思うが、今は正直その必要性は感じない。言語という記号にするのではなく、希望的イメージとして心の奥底で機能させたほうが、自分にとってはうまくいくはず。

「無言実行、この道しかない」

今年も皆さんにとって良い1年でありますように。

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