作品集と「やりたいこと」の正体

アートを職業の一つにしようと思ってから2年くらいがたった。経験もコネもないところから手探りで始めて、ようやっと作品がちらほら売れるところまできたので、作品集を作ってみた。約50ページもの分量になった作品集を見ながら、感慨深さとともに、ある考えが浮かんできたので、忘れないうちに文章化しておこうと思う。

現代の世の中では「自分のやりたいこと」を見つけて、それをやって生きるのが良い人生、みたいな風潮があり、「やりたいこと」を見つけるために旅に出る人もいれば、「やりたいこと」が見つからずに悩んでいる人まで様々だ。

ただ幸か不幸か、やりたいことをやり続けてきた自分が現時点で考える「やりたいこと」の正体は、世間の考えるそれとは文脈がかなり違う。

「やりたいこと」というのは、表向きは自分の意志で選んでいるように見えるけど、実は「選ばされている」のではないか。やりたいことをやって生きる人というのは、それをやるカルマのようなものを背負って生まれてきた人とイコールなのではないか、そんなふうに今は感じている。

なぜなら、実際にやりたいことをやって生きると、世間の考えるポジティブなイメージとは似ても似つかない荒れたオフロード(ZEEBRA風)が広がっており、ごく少数の圧倒的成功者を除いては、だいたいは苦労して生きることになる。途中で脱落する者は数知れず、心身を壊してしまう人も少なくない。そんな中で生き残る人たちに共通することは、それを「やりたい」のではなく、「それしかやれない(やらざるを得ない)」という表現のほうが適切なのではないだろうか。

とある戦場ジャーナリストの方が、「なんで危険な地域に行こうと思うのか?」という質問に対して、興味深いことを言っていた。簡単にまとめると、「若い頃からなぜか危険な場所に惹かれしまい、人から行くなと言われると、逆に行きたくなってしまう」のだそうだ。

この正直な意見は、とても腑に落ちるものがあった。中東で日本人ジャーナリストが殺害される事件があり、戦地での報道活動の是非が議論されている。そこでは「世界平和」や「民主主義」など、報道活動の大義名分がたくさん出てくるが、それで銃弾の飛び交う戦地に自ら赴くなんてまず考えられない。そこに赴く本当の源泉は、強い好奇心であるとか、スリルに対する刺激欲求のような、内からわいてくる衝動であることは間違いないだろう。

「やりたいこと」というのは、おそらくそういうことではないだろうか。内から湧いてくる、ある種制御不能な衝動に従わざるを得ないこと。そこに「自分の意志で決める」というカッコイイ言葉が立ち入る余地のないものこそ、本当の「やりたいこと」なのではないだろうか。

死んでしまうかもしれない。全く報われないかもしれない。もっと楽な生き方もあるのは知っている。それでも選んでしまう「やりたいこと」。そこに運命やカルマのような、逆らうことの出来ない流れを感じずにはいられない。

僕にとってそれは、目の前の50ページの作品集になって現れた。アートの世界で勝負するなんて、とても器用な生き方とはいえない。ゆえに他の選択肢もさんざん検討したつもりだ。しかし今目の前には作品集があって、これで勝負する気満々の自分がいるわけで…。そんな自分を俯瞰的に眺めると、「けっきょくこうなってしまったか…」という諦めのような感情がわいてくるとともに、「だったらもうこれで行くしかない」という覚悟も生まれてくる。

「やりたいこと」とは、多数のカードの中から選ぶのではなく、最後に残されたカードのことなのかもしれない。ひょっとしたらまたどこかで新たなカードが見つかるのかもしれないけれど、とりあえず今は残されたこのカードに、与えられた能力全てをぶつけてやろうと思っている。この流れの先にどんな風景が待っているかはわからない。しかしやるからには当然一旗揚げてやるつもりだ。

「やりたい」のだから、もう仕方がない。

 

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