世界がミニマリストに向かう要因を、評価のパラダイムシフトから考える

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世間では物を持たないミニマリストがもてはやされ、ファッションでもブランドや流行にこだわらない人たちが増えています。

本屋に行けば「断捨離」や「フランス人は10着しか服を持たない」など、この手の本はけっこう出ていて売れてますし、ファッション界ではブランドにこだわらないシンプルな服を着るスタイルを、「ノームコア」という名称でジャンル分けされているようです。

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そして最近は「モノより体験」という言葉がキーワードのように出てきますね。

僕はどちらかといえば、かなりミニマリスト側の人間です。しかし考えてみれば、学生の頃からずっとこんな感じだったんですね。自分自身は大して変わっていないのに、自分を取り巻く環境はかなり変わったわけで、その変化の分岐点や源泉を、昔と比較しながら考えていくと、とても興味深いものがあります。

ミニマリスト的な価値観が強くなった流れを説明するのに、「リーマショックなどによる、人々の資本主義への不信」や、「東日本大震災で日本人が本当に価値のあるものに気がついた」というような言説をよく目にします。

もちろんそれらの影響は大いに関係あることでしょう。ただそういう抽象度の高い大きな流れの他に、もっと人々の身近にファクターがあるのではないか、と考えていった結果、

「ああそうか、タダで評価を得ることができるようになったからだ…」

という答えに落ち着きました。

この「評価」については、考えていくとけっこう面白いので、今は思考の途中経過的なアウトプットを文章にしてみたいと思います。

 

■人は評価を求める生き物

人間は社会的な生き物である以上、まわりからの「評価」は、社会生活を営む上で欠かすことができません。ゆえに人々は評価を得ることに躍起になって挑んでおり、その側面から歴史の本を読んだりすると、人間というものの逃れられない性(さが)が見えたりして面白いものです。

そして20世紀まで、「何を持っているか」や「何を着ているか」が、大きな評価の源泉になっていました。そのためにブランドの服を着たり、いい車に乗ったり、豪邸に住んだりすることに、みんなで躍起になっていたのが20世紀までの先進国だったと思います。

そういう「モノ」が本来持っている価値よりも、「モノ」を持つことによって得られる「評価」のほうが、人々にとっては価値であり、そのためにお金は使われていきました。

例えば僕が高校生の時、ナイキのシューズが大流行したことがありました。みんなこぞって靴底に透明のエアーが入ったシューズを買い求めたのです。当時一番人気だったエアーマックスは、品薄のため10万円を超える価格で取引されていた上に、エアーマックス強盗事件も日本各地で起こったほどです。今考えればたかがスポーツシューズでこんなに熱くなってバカみたいですが、その要因は、ナイキのシューズ自体の価値ではなく、そのシューズを履くことによって得られる「評価」だったことは間違いありません。

逆にいえばそういう外見的なモノでしか、評価を得る手段がなかったのです。面白いことをやったり、考えてたりしていても、それを伝えられるのは親しい間柄の人しかおらず、けっきょく持ち物やファッション、または学歴や肩書きなどのわかりやすい記号が、評価を効率的に集めるには欠かせないものでした。そのためにみんな頑張ってコストを払っていた時代です。

 

■インターネットで評価獲得がタダになった

そして2015年現在の状況はどうでしょう。

みんな手元に通信デバイスを持ち、毎日SNSやブログを眺めています。そこにはあらゆる人の生活や、物事に対する考え方が投稿され、それに対する評価を簡単に送り合うことができるようになりました。インターネットによって、その人の考えや生き様など、内面的なものを広く可視化できるようになり、それらが評価の対象になったのです。

これって意外と大きな人類のパラダイムシフトなのではないか、と思うんですよね。

ミニマリストとか、ノームコア、フランス人は服を10着しか持たない、の源泉はここにあると思います。なぜなら評価を得ることが事実上「タダ」になったからです。

自分の考えや生き様を、ネット上に公開して評価を得られるなら、わざわざほしくもないエアーマックスを買うような、「外見的なもの」にコストをかける必要はありません。本当に必要な物だけをなるべく安くそろえ、他はレンタルやシェアで済ませればいいのです。

そんな文字通り「ミニマル」な生活を維持しつつ、自己実現のためにリソースを最大限活かす、そんな生き方が評価されるようになった一方、未だに外見的なもの(ファッションや肩書きなど)に頼っているような人の評価は、下落の一途をたどっていくことでしょう。インターネットによって、評価軸が集団から個人に移り、「あなたは何者なのか」が問われる時代になったのです。

モノよりも、自分のやりたいことや、楽しいことにコストをかけたほうが、評価を得られるようになってしまった。そこに「モノより体験」の本質があると思うし、モノが売れなくなるのも当たり前の話です。本能的に評価を求める人間にとって、評価を得られないモノに価値はありません。このへんの判断は本能的な分、意識せずとも大変シビアに行われているはずです。

 

■学生時代にほしかった

前述したように、インターネット以前の世界では、評価を得る手段は外面的なものに頼る以外に、あまり良い方法がありませんでした。僕が東京で学生をしていた90年代は、流行っていたファッションや音楽、そして流行の発信地だった「渋谷」をよく知らない人間は、いわゆる若者的な評価のメインストリームに入ることができませんでした。

当時の自分は、そのメインストリームから外れていたわけですが、そこから来る疎外感よりも、むしろ自分が考えてることや、面白いと思っていることを共有できる人間が限られていたこと、そして十分にアウトプットできる機会がなかったことが、好奇心旺盛な自分にとってはツライことだったように思います。

なので、もしもあの頃ブログやSNSがあったらどんなに楽しかっただろう、とたまに思うわけです。今もあの頃と変わらず、社会のメインストリームから外れた位置に、自分はいるような気がしてますが、今ならネットさえあれば、どこにいても同じ価値観の人と繋がれるし、自分の考えをシェアして評価を得ることができるので、気分的にはまったく違います。これが学生の頃からミニマリスト的だった自分が感じる、今と昔の環境の大きな違いです。

 

このように評価という側面から見ると、けっこう人々の動きがわかりやすかったりします。人々が何を望んでいるのか、を考えるなら、人々はどのように評価を得ようとしているのか、が答えになったりするのです。

そしてこの流れの先には、どういう世界が待っているのか、そんなことを妄想するのはなかなか面白いですね。

また時間ができたらもう少し「評価」について書こうかと思います。

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