アメリカ同時多発テロ以降の体験から、平和との向き合い方を考える

戦後70年目の終戦記念日は、いつも以上に戦争を考える機会となりました。正直、ここまで終戦記念日が話題となった年は、自分が生まれてからはなかったのではないでしょうか。

僕と同世代の人は、生まれるずっと前に日本が戦争で酷い負け方をした話はよく聞いていましたが、自分たちにその戦争というものが関わる心配は、ほとんどないまま生きてきたと思います。

しかしそんな平和な時代が70年続いてきた今日、少しずつ風向きが変わってきた雰囲気は誰もが感じ取っていることでしょう。残念ながら、何も考えずに平和を成就できた幸せな時代が終わり、「気をつける」ことが必要なタームに入ったことは間違いありません。

2001年にアメリカに渡った僕は、9.11の同時多発テロからイラク戦争に繋がれるまでの流れを、現地で眺めてきました。あの事件を境に、今では「間違った戦争」と言われるイラク戦争に突き進んでいったアメリカの豹変ぶりを見てきた者として、当時の感じた変化を簡単に書こうと思います。その中に、これから「気をつけるべきこと」のヒントがあるような気がするのです。

星条旗が溢れた

まずあの事件が起こってから、街中に星条旗が溢れました。あれだけの事件が起こってしまったのですから、この痛みを国民全員で分かち合おうとしているのだなと、当時は好意的に解釈していました。

感動話・美談が溢れた

命をかけてワールドトレードセンターに救助に入った消防士は英雄となり、それにまつわる美談、そして事件にまつわる感動話を多く聞くようになりました。悲劇を前にしても、負けないアメリカ人、そんな落としどころに持っていくようなストーリーが多かったように思います。

国民が団結し始めた

国民が団結していく様子が見られました。ブッシュ大統領の支持率は急激に上昇し、テロ集団がいるアフガニスタンへの報復戦争は、当然のこととして受け入れられていきました。

中東系やイスラム教徒の人たちへの目が厳しくなった

事件の影響で、中東系やイスラム教徒の人たちへの国民の目は厳しくなりました。聞いた話によると、アメリカ人でもイスラム教徒の人たちは、事件後なるべく外出しないようにしていたらしいです。頭にターバンを巻いたインド人が、イスラム教徒と勘違いされて殺害される事件も起こりました。

外国人への管理が厳しくなった

中東系やイスラム教徒ではない僕ら外国人も、それなりに影響を受けました。米国への入国や、滞在ビザの発給条件がとても厳しくなったのです。テロ防止の名目の下、外国人への管理が日に日に強くなっていきました。実際にアメリカで働こうとしていた友人や知人が、労働ビザを取得することができずに帰国するケースが増えていきました。

愛国ムードが国を覆い始めた

事件によるアメリカ人の団結から、しだいに愛国的なムードになっていきました。ここで僕は愛国ムードが醸成される仕組みがわかったような気がします。愛国ムードの源泉とはすなわち、共通の恐怖と憎悪を背景にした団結です。憎きテロリスト、憎きイスラム、憎き中東人。そうした憎悪を共有した団結は強固なものです。そしてその分、激しく排他的であり、自分らと違う人間は、自動的に排除の対象となります。

この団結の恐ろしさは、とにかく好戦的になるということです。その刃は、善良なイスラム教徒や中東系の人々、戦争に反対する自国民にさえも向けられました。そして存在しない大量破壊兵器を根拠にした、ブッシュ大統領の主張する「正義の」イラク戦争へと進んで行ったのです。

当時アメリカにいた僕ら外国人の多くは、そんな愛国ムードを傍目に、イラク戦争は行き過ぎだと感じていたと思います。実際僕が住んでいた都市部のリベラルなアメリカ人も反対の人が多く、抗議活動もたびたびありましたが、アメリカの大部分では、そうではなかったようです。「やられたのだから、やり返して当たり前」というロジックは、ウエスタンソングの歌詞になりながら、実際には「やられていない」イラクに向かいました。

愛国という恐怖と憎悪を背景にした「正義」の恐ろしさは、当時の体験からそれなりに理解したつもりです。市民からメディアに至るまで、正しい判断機能が麻痺していったアメリカの姿には、正直かなり失望しましたが、その分勉強にもなりました。

 

たまたま僕が体験したアメリカでの例を書きましたが、この流れは人類共通のものであり、話を聞く限り、第二次世界大戦の日本も同じようなものだったのでしょう。そして、それが繰り返されない保証はどこにもありません。

物事には光と影の両面があるように、すべての事象はコインの裏表です。愛情や優しさがある反面、憎しみや暴力性があり、連帯感は排他性を生み、正義感から悪事を働いてしまうのが人間です。一方に向かう力が大きければ大きいほど、反対に働く力も強くなり、それが集団になると、制御がどんどん難しくなります。

つまり極と極の幅が大きくなればなるほど、動きは過激になり、バランスを失いやすいという物理法則は、人類の歴史にも等しく作用しています。そしてその中から生まれる歴史のサイクルから、僕らは逃れることができません。しかし、その流れの前触れみたいなものには、気づけるのではないか、という希望は持っています。

何か人々の感情の振れ幅が大きくなるような出来事が起こったときは、注意が必要です。人々が美談や感動話を一斉にし始めたら、注意が必要です。人々が団結して正義を語りだしたら、注意が必要です。戦争を作り出すのは、強い光の後ろにある、影の部分です。

立派なことを言ったかと思えば、バカなことをやったりするのが人間であり、それがバランスです。社会がそのバランスを欠き始めたら、警戒しなければなりません。平和を声高に叫ぶよりも、そのような日常のバランスを見る冷静さを、常に持っていたいものです。「美しいニッポン」の裏側には、同じ分「醜いニッポン」があることを忘れてはいけません。

 

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