非言語の恋愛論

社会的に成功していたり、端から見れば順風満帆に見える人でも、実は家庭生活がめちゃくちゃだったり、変な恋人と付き合ってトラブルになっていた、なんて話をよく聞きます。そのたびに、本当の意味で人を見る目は、教養や社会的地位とは別文脈なんだなぁと思います。仕事相手のような限定された人間関係では、いい人材を選ぶことができても、恋人や結婚相手のような、人生を共にできるパートナーを選ぶ能力は、学校では教えてくれません。

そんな人生にとって最重要な能力をなぜ学校が教えてくれないのか。答えは簡単で、「言語化」できないからです。その観点から男女関係について書いてみたいと思います。

僕は男であれ女であれ、気になる人ができたと相談されれば、「早くホテルにでも誘ってやっちゃえばいいんじゃないの」と主張しては苦笑されます。もちろん半分は冗談ですが、半分はめちゃくちゃ本気です。

長く付き合っていける相手は、外見や言語化できる諸条件(職業や年収、性格など)のみでは判断できません。逆にいえば、意識できる部分のみで決めた関係は、破綻しやすいと言えるでしょう。競争社会を勝ち抜いてきた、社会的地位の高い人たちが、犯してしまいがちなミスが、このへんにあるような気がします。なぜなら彼らは言語化された、意識の世界の勝者だからです。その勝ちパターンを人生に持ち込めば、ドライな日常生活になってしまうのは当たり前だし、それによって人生を踏み外したエリート主人公、みたいな構成の映画は世界中にありますね。

恋人だけに限った話ではありませんが、長く付き合っていけるパートナーを見分けるには、言語化できない無意識の世界が多分に絡んでいるので、こればっかりは付き合ってみないとわかりません。価値とは、「間」にあるものだと少し前に記事を書きましたが(物事の本質は「間」にある)、人は自分と相手の関係性を通して「価値」を発見していくものです。自分を通して相手を知り、相手を通して自分を知るという行為は、ほとんど言葉で定義することはできません。その中で「この人といると心地いいな」とか「この人はちょっと無理だな」と直感的にわかってくるわけです。

つまり「経験」以外に、この力をつける方法はありません。いくら男らしさや女子力たるものを磨いたり、ネットで恋愛記事を読みあさって物知りになったつもりでも、素振りだけして試合に出ていない野球選手と同じです。力をつけるには、バッターボックスに立つしかないのです。

なので、いいパートナーを見つけたいなら、とにもかくにも経験しかありません。気になる人がいるなら、お互いに腹を割って話せる状態に持っていくのが一番であり、それ以外の方法はないわけです。

ということで気になるならさっさと関係を持って、その過程を通して合否を決めればいいのではないかと思います。相手がどういう人間かを遠くから探っていても時間の無駄ですし、ここまで自由になった恋愛市場において、男女の関係に世間的な倫理観を持ち込むこと、要するに節操を気にしすぎることは損失だと思います。今は昭和時代ではなく21世紀です。男であろうが女であろうが、一人の独立した個人として、どのように振る舞うかは自由であり、周りの価値観は関係のない世界です。カッコつけた振る舞いはいずれ破綻する上に、相手を選ぶ視力を悪くする元凶でしかありません。

ちなみに海外では交際前の「お試し期間」システムがあるそうです。日本もこういうの導入したらどうでしょうね。→【日刊SPA!】欧米では交際までにセックス込みの「お試し期間」がある。複数人と同時並行もOK

前述したように、関係を決めるのは言語化できない無意識の領域であり、それは理性で物を語る夢や理想の世界とは別の、動物的な本能が支配する世界です。そこには白馬の王子様も、ルックスや性格という言語化したテンプレートに当てはまるような人間もいません。なぜなら関係性はお互いの間に存在し、時間とともに変化していくからです。言い換えればそのパートナーとは、「世間」の中にはおらず、自分の「無意識」の中にいるもの、と考えることができますね。パートナーを探すこととは、自分を探すこととイコールの関係なのかもしれません。

真面目に書いてしまいましたが、僕としてはそんなに真面目にならずに、ゆるーく自然体で楽しそうにしてたほうが、いい相手に恵まれやすいのではないかと思います。恋愛が人生のすべてになってしまうようなことは不健全であり、そんな姿勢では得る物も得られなくなるかもしれないですからね。みんなもっとゆるく楽しく女遊び、男遊びをしとけば、異性を見る目がつくし、良いパートナーも見つかりやすいのではないでしょうか。

 

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