ジョーカーとドナルド・トランプと現代社会

トランプのジョーカーというカード、トランプのゲームのみならず、現実社会でもレトリックとしてよく使われますよね。

この怪しげなジョーカーという記号の起源を皆さんご存知でしょうか? 僕は1年前くらいに小室直樹先生の著書で知ったのですが、大変興味深いのでシェアしますね。

数学を使わない数学の講義」より抜粋

「トランプのジョーカーが、ジャックやクイーン、キングよりも強く、エースよりも強いのは誰もご存じのとおりだが、そんなジョーカーという役割の者を、各宮廷の王様は必ず雇っていた。そして、荘厳このうえもない宮廷において、ジョーカーだけはどんなふざけたことを言っても許され、いわばオールマイティの位置づけをされていた。
たとえば絶対王朝時代の宮廷においてすら、家来はもちろん、女王にしても、王にしても、やっていいことと悪いことのけじめが厳然と存在していた。にもかかわらず、なぜ、ジョーカーだけは、何をやっても許されたのであろうか…?

その理由は、まずユダヤ教的精神(ヘブライズム)にまで立ち戻って考えなければわからない。つまりユダヤ数の精神によれば、神だけが絶対であって、被造物である人間は、どんなに絶対的に見えようと、つまり国王といえども、絶対であるということはあり得ない。

中略

絶対でないものは、すなわち仮説にすぎないということになり、見掛けだけはものすごく荘厳だとしても、所詮は仮説にすぎないとされる。とすれば、当然、馬鹿にしたっていいわけで、西洋的論理主義の赴くところ、それを許す存在がどうしても必要となってくる。だが、そんな存在を正統的なものと見なす通念が一般に根づいては、絶対王朝にしても国王にしても困る。そこで、当時、最も卑しい人間だと考えられていた道化師に、その特権が与えられたのである。いずれにしても、ヘブライズム的伝統の上にヘレニズム精神を接木するのに必要な緩衝材として、ジョーカーは誕生したわけである。」

 

王政システムと宗教との矛盾を解消するために、一番弱いものが一番強いものよりも強くなってしまうという矛盾。秩序の裏には必ずカオスが生まれるように、正しさと矛盾は表裏一体であることが自然界の掟なんだなと妙に感動したのを覚えています。

それと同時に、時代が変化している今こそ、ジョーカーがたくさん出てくるに違いないとも思ったんですね。

政治の世界では山本太郎さんがそれにあたるような気がします。そして最近はドナルド・トランプ氏がその筆頭ですね。10年前ならどちらも一笑に付されて消えていく泡沫候補だったに違いありません。しかし今や山本氏は党の代表として安倍総理と論戦するまでになってますし、トランプ氏は一度も政治家の経験がないにもかかわらず、共和党の大統領指名候補のトップを走っています。

極論と奇行の道化師(ジョーカー)が、既存勢力(キング)を凌駕している現状は、まさにトランプのルールそのものであり、その張本人が「Trump(トランプ)」という名前なんですから、まさに「事実は小説よりも奇なり」です。

これを「面白い」というのはいささか不謹慎かもしれません。しかし面白さという感情は、危険と背中合わせだからこそ生まれるものです。一政治家として、山本氏やトランプ氏は単なるトリックスターに過ぎないのかもしれません。しかしそれを点ではなく、大きな流れの一部として考えると、現在の世界の有り様が見えて「面白い」のです。まさに時代は今、面白くなろうとしています。

時代が生み出すジョーカーが、単なるトリックスターとして消えていくか、それとも坂本龍馬やチェゲバラのような革命者になるか、はたまたヒトラーやムッソリーニのような悪魔になってしまうかは、歴史になってからでないとわかりません。ただ世界は今までの文脈では解釈できないところまできており、ジョーカーのカードを切る局面であることは間違いなさそうです。わかりやすい例として山本氏やトランプ氏を出しましたが、それ以外でも、異端児や風雲児と呼ばれるようなジョーカーが、様々な分野で登場してくることでしょう。

そして「ヘブライズム的伝統とヘレニズム精神のつなぎ目を合わせる」ように、時代の変化のつなぎ目の中で生まれる、矛盾を正そうとする圧力は、我々個人の中にもジョーカーを生じさせるに違いありません。そのジョーカーとの折り合いこそが、これからの社会との接し方、そして自分自身の次の生き方の答えになるような気がしています。

さらに場合によっては僕自身が、あなた自身が、ジョーカーの役割を演じる時が来るかもしれません。

 

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