生きるとは情報を作ること

デビッド・ボウイの突然の訃報から2日がたちましたが、未だにTwitterやFacebookでは、彼を惜しむ記事や写真を多く目にします。その膨大な情報量に、彼はこんなにすごいアーティストだったのか…と今更ながらに思っている次第です。有名なのは知っていたけれども、ここまで広範囲の分野に影響を与えていたことは、正直知りませんでした。

人間は肉体が滅んでも、「情報」として世界に残ります。よってその情報が、世間でどのくらい流通するかが、その人の社会的な価値を測る基準になり得ると思うんですね。その意味でネット上に溢れるデビッド・ボウイの情報は、まさに彼の価値の高さを物語っているようです。

そして情報そのものの価値は、「新たな情報をどれだけ多く生み出したか」で決まると思います。動物の世界では強いオスが多くの子孫を残すように、強い情報は多くの情報を生むのです。

アインシュタインが考えついた情報に価値があるのは、それに影響された多くの物理学者によって、情報が新たに生み出されているからです。価値のある情報は、必ず人々に影響を与え、そこから新たに多くの情報が生み出されます。情報の増殖こそが人類の進化の歴史です。誰もがその過程の中で、貴重な1ピースを担っています。

なんでこんなことを考えるかというと、アーティスト活動をやっていると、「なんで自分はこれをやっているのか?」という問いにぶつかる時が、たまにあるからです。これで収入を得ているとはいえ、一般的なビジネスのように、社会の要求を満たす意味合いでの、義務的な生産活動ではありませんし、ただ「好きだから」「やりたいから」という、純粋な願望のみで語る理屈だけでは、続けるに値する納得感はなかなか出しづらいものです。

そんな中、人は基本的に「情報を生み出すこと」しかやっていないと考えれば、しっくりくることに最近気づきました。

自分が生み出した情報が、新たな情報につながっていくことに、人は根源的な欲求を持っているように思います。そしてどういう情報を生み出すかは、人それぞれですが、その人が得意だったり、好きだったりする情報を提供することが、最も合理的かつ効率的で、その過程に喜びを持てるような気がします。自分の場合はそれがアートやデザインだった、ということです。

これさえわかれば、自分のやっていることに、わざわざ大義名分を考える必要はありません。大義名分のみならず、作っている最中に考える思想や芸術性も、結果として生み出される金銭や名誉のようなものも、すべて単なる付随的なものに過ぎないと気づくわけです。付随的なものを最重要のように誤解するから、迷ったり失敗したりするんですね人間は。

やるべきことは、素直に自分の根源的な欲求に従い、自分の作りたい情報を作り、世に提示することです。その観点で見れば、作品を作ることも、ブログを書くことも、友人との馬鹿話すらも、情報を作り出しているという原理は同じであり、誰もが同じことをしています。差があるとすれば、その情報をいかに大切に扱うか、ですかね。

情報はどこまでいっても情報であり、動くことも変わることもありません。デビッド・ボウイはもう曲も作らなければ、歌も歌いません。しかし情報となったデビッド・ボウイは、今日も世界を駆け巡り、たくさんのアーティストやオーディエンスに引き継がれることで、今後も新たな情報を生み出していくことでしょう。

ここまで書いておきながら、実はあまり彼のことを知らないのですが、ここ数日で彼の価値はよくわかりましたし、自分も頑張ろうと思った次第です。生きるということは、情報を作り出すことそのものであり、その情報こそが「自分」ですからね。

 

 

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