愛を自分なりに定義できるようになった話
学生の頃、カトリック系の学校に通っていたため、何人かの神父の先生と親しくしていた。その中の一人で、英語を教えてくれたアメリカ人の先生によると、愛とは「人のために死ぬこと」らしい。
その単刀直入すぎる一言に、なんか壮大だけど、それはきついなぁ…と思ったことを覚えている。
それから時が経ち、妻と結婚して子どももできた。
その2人と生活をともにしながら、改めて愛について考えると、愛とはすなわち、「執着が自分の命を超えてしまったもの」と定義できるのではないか、と思うようになった。
生物なら誰でも自分の命が最も大切で、命を失わないためには何でもやるものだ。その執着心こそが地球の生命繁栄の源だろう。
しかし子どもを見ると、彼のためなら自分の生涯を捧げてもいいと思えるし、妻が死ぬくらいなら自分が死んだほうがましだと本気で思う。つまり自分の命より、彼らのほうが上になってしまっているのだ。
「愛とは人のために死ぬこと」。解釈は多少違うかもしれないけれども、この年になって先生の言っていた意味が、肌感覚でわかったような気がしている。
最近とある有名芸能人が、バンドマンとの不倫を報道され、休業を余儀なくされている。周りから見れば、彼女は多くを失ったように見えるかもしれないが、彼女自身は、愛という名の、自分の命以上の価値を得ているのかもしれない。
そうであるならば、それはそれで素敵な人生なんじゃないかと思う。道徳的、世間的にどうであれ、愛とともに生きる彼女を否定することは、僕にはできない。
何を失ってでも守りたいもの、すなわち執着の頂点、それを人は愛と呼ぶ。だからこそ、そこに善か悪かという世間一般の物差しは通用し得ない、最高の価値があるものなのだろう。
そう考えると、自分の愛の対象が合法的で本当に良かったと思わずにはいられない。
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