普通が一番ありがたいと思った話

先週末は風邪をひいてずっと寝ていた。
微熱だとはいえ、やっぱり体調がすぐれないと気分もよくない。

体調を崩すと健康のありがたみがわかるのは毎度のことだが、ソシュールの言語学の対比よろしく、不調があるから好調が存在しているのだなと、哲学的なことを眠れぬベッドの中で考えていた。

本来「健康」とは単に、身体の「普通」の状態のことであり、もしも病気などの「健康でない状態」が存在しなければ、概念として成立していない。

自然豊かな場所で、水や空気が「おいしい」と感じるのも、都会で汚染された「まずい」水と空気を知っているからこそで、それがなければどれも単なる水と空気だ。

「幸せ」という概念も、不幸な出来事や辛い体験をしているからこそ知覚できるもので、本来は幸も不幸も不可分なものなのだろう。

それらを総合的に考えると、「健康」とか「おいしい」とか「幸せ」という、一見「プラス」に思える表現も、実は「マイナスではないもの」であり、マイナスから戻ってくるべきラインに過ぎないのかもしれない。

世界最古の医療といわれるアーユルヴェーダは、病気を治すのではなく、身体を生まれた時の「普通に戻す」ことを目的とされた療法らしい。PCの調子がおかしくなった時も、「初期化」して出荷当時の状態に戻すことがたまにある。考えてみれば自分が子どもだった頃は、何もせずとも健康で楽しく、幸せだったし、機械もできた時が最も動きが良い。

けっきょくのところ、僕らが目指す最良のものは、「初期設定」の中にすべて入っているのかもしれない。それらを「普通」と定義するならば、自分にとっての「至上」は、すでに自分の中にあって、幸せをつかむとか、健康になるとかいう表現よりも、「普通に戻る」のほうが適切なのではないだろうか。

人間は何かと、より良くするために一生懸命頑張る。しかしそれが「普通」から逸脱させるものであるならば、表面的にはよくなったように見えても、その副作用は人生のどこかで、悪い形で表出することは歴史の教えでもある。

「だからやっぱり普通が一番ありがたいなぁ」と、微熱でぼーっとした頭で考えていた。今は普通に戻れたので、先週末よりも幸せである。今後もいろんなことがあるだろうけど、自分の中にある「普通」の水平線は忘れないようにしたい。

 

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