自分の世界の話

小さい頃に、テレビでペンギンのことがやっていて、南極の夏は気温5度くらいまで上がるので、体の弱い赤ちゃんペンギンは暑さで死んでしまうらしい。(小さい頃のうろ覚えなので、正確な情報かどうかはわからない)

人間ならば全裸で気温5度の中にいたら、おそらく寒さで死んでしまうだろう。それがペンギンは暑さで死んでしまうとは…。映像ではホントに暑さで苦しそうなペンギンが映し出されていて、子供の頃の小さな驚きだった。

 

ペンギンと僕は、同じ場所、同じ天気、同じ気温・湿度の場所にいたとしても、全く別の世界を生きているとしか思えない。もしも僕とペンギンがここにいたら、ここは一つの世界ではなく、別々の世界が二つあると考えるしかないだろう。世界はそれぞれ違うのだ。

 

世の中には、わかり合いたい人がたくさんいて、わかり合えなくて悩んでいる人もたくさんいる。

でもどうだろう? ペンギンほど極端でないにせよ、それぞれの感じ方が違う以上、僕らは一人一人別の「世界」で生きている。

ということは、わかり合うことなんてそもそも不可能なのではないだろうか。

人に誤解されることは気分のいいことではないけれど、そもそも「世界」が違うのだから仕方がないと思うしかないし、それを「誤解」と認識するのは間違っているのではないだろうか。

「僕の世界」で認識している僕と、「あなたの世界」であなたが認識している僕がずれている以上、それは誤解ではなく、それも「正解」と思うしかないものだと僕は思う。

 

そうやって考えると、僕のことを知っている10人がここにいるとすれば、それぞれの「世界」で違う僕が10人いると考えたほうが合理的だ。僕がいくら「自分はこういう人間だ」というイメージを持っていても、「あなたの世界」では違うイメージの僕がいる。そして「僕の世界」ではあなたの思っているあなたとは別のあなたがいる。

 

世界が違うのだから仕方がない。

 

友人やパートナーとうまくやっていくためには、わかり合うのではなく、相手が別の「世界」に生きていることを認め、「相手の世界」を尊重することだろう。自分と相手は「わからない」し、「違う」のが当然という前提で付き合わないと、どこかでその「世界」同士は破綻する。

自分では気分のいいものでも、相手は不快かもしれない。自分にとっては宝物でも、相手にはゴミかもしれない。

恋人だから、友人だから、家族だから、「わかり合える」というのは大きな勘違いで、大切なのは、「違う」ことを受け入れ、相手がどう感じているのかを予測し、自分の「世界」とうまく折り合いをつけることが「思いやり」なのかもしれない。

 

そして生きる上で何より大切なのが、「自分の世界」をどう豊かにするか、ということだと思う。

世の中には人の「世界」を監視し続け、「自分の世界」を疎かにしている人がたくさんいるように思う。そういう人はたいてい、自分や世の中に対してネガティブで、嫉妬深かったり、自信がなかったり、不平不満ばかりだったりする。

でも変えることも触れることもできない人の「世界」に一喜一憂することは、考えてみればそれは大変不毛なことだし、それで「自分の世界」がよくなるわけでもない。

日本では自分のことよりも他人のことを考えることが美徳な風潮もあるが、「自分の世界」を疎かにして、どうやって幸せになれるのだろう?

「隣の芝は青い」という言葉あるが、自分の芝が草ぼーぼーで荒れ果てていたら、隣の芝が青いのは当たり前である。

「自分の世界」が汚かったら、目に映るものは汚くなるだろう。世の中は嫌な人ばかりで、嫌なことばかり。汚いんだから。

「人生の主人公は自分」みたいなことは今更言いたくないけれども、少なくとも「自分の世界」は自分だけのもので、この「世界」をきれいにするのも汚くするもの、居心地を良くするのも悪くするのも自分だ。

他人の「世界」で自分がどう映るかなんて不毛な考えは捨てて、「自分の世界」では何が重要で、どうすれば快適か、楽しいか、自分は何をやりたくて、どこに行きたいか、を追求することが、唯一自分が自分を幸せにできる方法だと思う。

そして「自分の世界」をきれいにできて初めて、自分以外の「世界」もきれいにできると思うのよね。

 

今自分の目に映る「世界」は、どんな風が吹き、どんな風景が見え、どんな音が聞こえ、それを自分がどう感じているだろう?

寒いか暖かいか、

冷たいか熱いか、

心地いいか不快か、

嬉しいか悲しいか、

幸せか不幸か…。

 

自分が認識できる真実「リアル」はそれだけだ。人生はそれだけ。この「世界」を生きることができるのは自分だけ。

 

 

おしまい