昨年はお世話になりました。今年も良いアルゴリズムの共演を。

2018年は総合的な印象でいうと「慌ただしい」というフレーズが浮かんでしまうくらい忙しかったが、公私にわたって順調だったと思う。これもひとえに、お世話になった方々のおかげです、と言ってしまえば話はそこで終わってしまうが、僕はこの1フレーズで終わってしまうのが申し訳ないと感じるほど、人との縁によってここまで来られたと思っている。この縁について僕なり見解を述べてみたいと思う。

この40年を振り返ってみれば、本当に好きなことをやり続けてここまで来れたと思う。仕事の面でもフリーになってから今年の春で10年目に突入する。「継続は力なり」ともいうけれども、どう考えても、この「力」は僕の力ではない。僕の力だけではとうの昔に沈没していただろう。

僕は好奇心や思いつきで行動するので、そのたびにそれなりの問題にぶち当たってきた。分かりやすい例でいえば、英語もろくに喋れずにアメリカに行ってしまったことだろう。先生が何を話しているのかさっぱりわからず、「これはどうしたものか」と思いながら街をトボトボ歩いたことをよく覚えている。そして会社を辞めてフリーランスの開業届を書いている時も、仕事の当てはなかった。

しかしなぜか毎回どこかから救いの手が差し伸べられるのだ。そう、助けてくれる人が現れるのである。

これはアルゴリズム(計算方法)で考えるとわかりやすいかもしれない。僕のアルゴリズムでは、アメリカで暮らし続けることも、フリーで活動することも無理だっただろう。しかしそこに予期せぬ他者というアルゴリズムが加わることで、問題は解決され、前に進むことができた。そしてその「化学反応」は互いに影響し合い、「助けた/助けられた」という二元論的な上下関係に終止することなく、その後の関係は続くのである。

この偶発的なアルゴリズムの共演による、ポジティブな協力関係こそ、人生を歩む醍醐味、面白さ、そして「アート」なのではないかと思う。僕は彼(彼女)に助けられただけでなく、彼(彼女)も僕の何かが必要だった。その相互的引力の「混ざり合い」により、まるで化学反応を起こした有機体のような広がり方で、人生は変化していくのである。

そんな体験から、僕は自己に対して大したこだわりがない。そして年齢や立場といった「体面」も興味がない。今までもこれからも、僕が不得意なことは人に助けてもらうだろうし、逆に僕が得意なことで人を助けていければと思う。そのアルゴリズムの共演によるアウトプット、有機体的広がり方に価値があり、僕単体では何の意味もないのである。

「ありがとう」の反対語は「あたりまえ」らしいが、その偶発的なアルゴリズムの共演で人生が成り立っている以上、世界に「あたりまえ」なんて何一つ存在しない。

好きなことをやらせてくれた両親は有り難く、頼りない僕を理解してサポートしてくれるワイフおよび息子の存在の有り難さは言葉に尽くせないほどだ。そしてビジネス・プライベート関係なく(フリーになってからその境が本当になくなった)関わってくれる人全てが有難い。それにより僕の人生は形作られており、一つでも欠けたら今の僕は存在していないだろう。これは道徳的および感情的な見解ではなく、客観的事実である。

以上を踏まえた上で、2018年関わってくださった方々にはここで「お世話になりました」と言いたい。2019年も引き続き、アルゴリズムの共演ができる機会があれば、ぜひぜひよろしくお願い申し上げます。今年もよい化学反応を。

 

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