何をがんばるかは人の勝手だろ論(今日の社会観測)

先日息子の小学校の運動会に行ってきた。
運動会で父親のやることはハッキリしている。かわいい息子の運動会での姿を記録に残すことだ。今年も200mmの望遠レンズと、小さなキャタツを持って、任務をこなしてきた。

ちなみにキャタツは何個か買ったことがあるんだけど、下記の商品はコンパクトな上に、インテリアとして置いてもそこそこ様になるので、僕と同じような撮影戦士のお父さん方にはオススメである。

スロウワー 折りたたみチェア フォールディング スツール レズモ サンド SLW 004

 

僕は運動ができるほうだったので、子どもの頃は運動会が毎年楽しみだったのだが、運動会の「やらされてる感」はどうしても苦手だったし、今も運動会に来るとその時のことが思い出される。競技の前にお約束のように流れる「子どもたちが」「一生懸命」「全力で」「がんばる」的なポエムなアナウンスは今の時代も残っており、そういう一生懸命の押し付けはやめてくれないかと写真を撮りながら思った。

こういうと大抵面倒くさいやつ認定されるわけだが、あまり主張してる人がいないので書いてしまおう。

 

◾️がんばることの押し付け合いで疲れている人たち

世の中の人たちはがんばれと言いすぎなんじゃないかと言っていたのは確かタモリさんだったと思うが、「一生懸命」「全力で」「頑張る」的なポエムは運動会だけでなく、社会全体に溢れている。日本人はがんばって、ヘトヘトになってもさらにがんばっている人が大好きで、その手の物語の消費量は世界有数なのではないかと思わなくもない。

この「やればやるほど良い」という思考は、東アジアの国々全般に見られる現象で、それはメインで取っていた農作物の影響なのではないかという、最近読んだ仮説が面白かった。欧米の場合メインの農作物は小麦で、麦作は一定期間畑を休ませないと、小麦はとれなくなってしまう。それに対しアジアの稲作の場合は、やればやるほど米がとれ、豊かになった。それが欧米人から見ると「がんばりすぎ」に見えるアジア人のメンタリティを作ったのではないかという仮説だ。

その仮説の真偽は別にしても、日本人が「がんばりすぎ」なのは、誰もが認めるところだろう。しかし本当のところは、「がんばっている」のではなく、「がんばらされている」のほうが適切なのではないだろうか。労働に対する生産性が先進国最低なのは毎年聞くニュースで、生産力を上げなきゃいけないと誰もが言うけれども、日本人にとって大切なのは、生産という結果ではなく、ただがんばってヘトヘトになってもさらにがんばっている物語で、その物語が強固に自己目的化しているとしか思えない。

がんばることを要求され、それを素直に実行し、疲れても我慢してがんばる姿こそが尊い、という思想が根深くあり、そこに「みんなのために」「社会のために」という利他的なパワーワードが投下されると、日本人はそれを拒否する思想体系を持ち合わせていない。その見えないパワーを山本七平氏は「空気」と呼び、それを巧みに利用してブラック企業が繁栄を極めた。もし個々人がどこかのジムのように結果にコミットする意識を持てば、生産性も上がるし、ブラック企業も淘汰されるだろうが、がんばりのドグマは根深く、互いに監視し合い、楽をしている(ように見える)人間や、芸能人と付き合って楽しそうにしてるアート好きな社長にいちいち文句をつけながら、不毛なデスマーチは続くのである。

小さい頃からがんばりを強要され続ける社会にいるのは、やりたくもないことをがんばらされたあげく、期待したリターンも得られずに疲弊した人々の群れである。昭和時代の繁栄に囚われてきた平成ももうすぐ終わる。がんばりという名の忍耐とトレードオフによって富を得られるような発想は、早くやめたほうがいい。

◾️エネルギーと時間の価値と使い方

僕が運動会でがんばりを押し付けることに不快感を覚えるのは、それは息子の資産だからだ。教育の現場なので指示には従うべきだが、それをがんばるかどうかは息子の勝手である。日本人は自分の金の使い方を人に強要されたら怒るのに、エネルギーと時間には無頓着だ。本来であればそれらこそが有限で大切なものなのに、エネルギーと時間はタダだと思ってる節は、社会に出ても多々感じることがある。これでは生産性が低くなるのも当然の結果だろう。

生きるとは、自分に与えられた本質的なリソース(エネルギーと時間)を使うこと、と定義することができるだろう。それを何にどのように使うかを自分で決めることが自由に生きることであり、逆にいえば、「自分で決めるしかなくなってしまった」のが21世紀だと思う。お金の使い方にセンスがあるように、自分のリソースをどのように使うかで、人生の質も決まってしまう。自由や幸福に関して、様々な言説があるにせよ、結局のところいかに自分の納得するようにリソースを使うかに集約される話である。

自分が好きなことは何か、言い換えれば、何に自分のリソースを投下すれば、自分が満たされるかを把握することは、何としても社会に出る前にやっておいたほうがいいだろう。子ども時代の使命と言ってもいい。大人の役目はその過程のトライ&エラーを手助けすることであり、特定の事柄にリソースを強制的に消費させるスタンスはむしろ逆効果でしかないと、今の社会を観察しつつ思う。運動なんて自由にやらせればいいのだ。彼らが望めば、がんばれなんて言わなくても勝手にがんばるのが子どもだろう。

仕事を使って自分のやりたいことをやってしまう人や、仕事は仕事として収入を確保する手段として使い、仕事以外の場で自己実現を目指している人、さらには四六時中遊んでいるようにしか見えない人まで、周りには楽しそうな人がたくさんいるが、彼らと話すたびに、自分のリソースの使い方というのは、学校では教えられないし、そもそも社会的な基準や合理性とは根本的に違うところにあるものだと実感する次第である。彼らの考え方は、運動会的なスタンスとは相容れない。なぜなら彼らは自分のリソースの使い方に自覚的かつ主体的に決められるからだ。

人々が自分のエネルギーと時間をもっと大事にし、主体的に使う意志を持てば、日本の諸問題はだいぶ解決すると僕は思っているのだが、その日はまだまだ遠いことを秋の「空気」の中で思うのである。とりあえず息子には人のエネルギーと時間のフリーライダーには気をつけろと言っておきたい。いらすとやにいい絵があったので、最後に載せておこう。

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