何も知らない人間のテーゼ

ここ数年、会う人会う人に「なんか飄々としている」という評価をもらうことが多く、そのたびに「人間なんてバカなんだからそんなのを気にするほうがバカ」とか「みんなたかが人間ごときに期待しすぎ」と冗談っぽく(乱暴に)見解を申し上げてしまう昨今なんだけど、これはけっこう真剣に考えていることなので、ブログに記録しておこうと思う。

というのも、サピエンス全史という書籍に、上記に関連するような大変面白い指摘があったからだ。それは近代は人類が無知の発見(「知らない」という認識を持つこと)により発展した、という指摘だ。以下引用しよう。

近代科学は「私たちは知らない」という意味の「ignoramus」というラテン語の戒めに基づいている。近代科学は、私たちがすべてを知っているわけではないという前提に立つ。それに輪をかけて重要なのだが、私たちが知っていると思っている事柄も、さらに知識を獲得するうちに、誤りであると判明する場合がありうることも、受け容れている。いかなる概念も、考えも、説も、神聖不可侵ではなく、異議を差し挟む余地がある。

進んで無知を認める意思があるため、近代科学は従来の知識の伝統のどれよりもダイナミックで、柔軟で、探究的になった。そのおかげで、世界の仕組みを理解したり新しいテクノロジーを発明したりする私たちの能力が大幅に増大した。

現代に生きる僕らからすれば滑稽に思えるけれども、近代以前の人間は、自分たちが「すべてを知っている」と思っていたらしい。

宇宙もこの世界も、自分たちの存在意義や、死後の世界まで、すべて神様が知っておられる。そんな全知全能の神様が教えてくれるのだから、自分たちはすべてを知っているし、それを疑うなんて許されない、という具合だ。

いやでも実はそれって勘違いなんじゃね?というところから、近代科学のブレイクスルーが始まったわけだ。無知というスタートラインに立って初めて、人類の知への旅は始まったのである。「無知の発見」とは、なかなか言い得て妙である。

我々はよく知らないし、知っていることも、実は間違っているかもしれない。近代の物理学や化学の変遷を見るたびに、確かなことなどどこにも存在しないのだなと思わされる。

それにも関わらず、大人になって社会に出ると、なぜか「私は知っている」と思い込んでいる人たちにたまに出会うことになる。彼らはあたかも世界を知っているかのように、または確固たる正解が存在しているかのように、人に説教したり、人を評価したりするのだ。

僕が思うに、「老い」というのは、「私は知っている」と思い込んだ時点から始まるのではないだろうか。知っているなら、もう知る必要はなく、好奇心も探究心も必要ない。ただただ自分の正しさにしがみつき、一部の宗教のように違う者や異を唱える者を排除するだけである。

どうやら「大人」という概念は、なぜかいろんなことを「知っている」と虚勢を張る態度を要求されるようである。確かに本当に無知では生活ができないので、ある程度の知識は必要だが、それを人生全体に当てはめてしまうのは愚かだ。

そしてその愚かさに取り憑かれて、鬱屈とした大人の方々も多くいるように見えるし、日本の幸福度の低さはそれに関連しているのではないかと思わなくもない。知らないことを認められない人間は、己に悩み、将来を心配し、人と比べ、かりそめの正しさに盲目的に迎合し、他人の否を責めつつも、自分が間違っていないか、恐れながら生きている。

しかし正解なんて存在しないのに、どうやって間違うのだろうか。ゴールどころか道すら存在しないのに、どうやって道に迷うのだろうか。正しい人間なんていないのに、誰と比べるのだろうか。何も知らないのに、何を恐れているのだろうか。

僕らが自由に生きられるのは、何も知らないからだ。何も知らないから、新しいものを受け入れられるし、好奇心の旅へ出かけることができる。何も知らないから、自分にも他人にも寛容になれるし、同じく何も知らない「他者」を過度に気にする必要もない。

子どもが毎日楽しそうなのは、知らないことを楽しめるからだろう。逆に大人が苦しそうなのは、知らないことを恐れるからだ。そんな大人をわざわざ演じる必要性なんてあるのだろうか。生涯で人間が知れることなんて微々たるものであって、人生のダイナミズムというのは、いつも僕らの想像の範疇の外からやってくるものだ。それを楽しむ気概と姿勢こそが、本来の「大人」に求められることのような気がするし、それができれば人生は十分価値があるものなのではないかと思うのだ。

僕らはどこから来て、どこへ行くのか知らない。なんでここにいるのかも知らないし、いつ終わるのかもわからない。ならば気がむくままに好きに生きて、好奇心を持ったことをやり、人には親切にして、一緒にいたい人と一緒にいれば、それでもう十分で、それ以上できることなんてないのではないか、ていうか他にあるなら教えてほしい。

面白いもので、勉強すれば勉強するほど、知識が増えれば増えるほど、人間がいかに無知であるかがわかってくるものだ。頭のいい人というのは、知らないことを知っている人ともいえるし、人間の創造性というのは、そのような認識から生まれるのではないかと思う。僕は死ぬまで世界を楽しみ、何かを創作していたいので、死ぬまで「何も知らない人」でいい。

ということで、冒頭の放言に戻ると、バカ(無知)な人間(自分含め)なんか気にしないで、みんな好きに生きればいいんじゃないかと思うわけ。そしてけっきょくのところ自分が思ったことしかできないのでだから、人間はそのようにできていると思うしかないのではないか、と思うわけ。

まあ、よく知らないけどね。

 

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