物事の本質は「間」にある

春の足音が聞こえてきた今日この頃、寒さにめっぽう弱い僕の暗黒の季節(別名:真冬)が終わり、冬眠(別名:引きこもり)から目覚め、活動的になる季節が来たことを実感している。まさに外にいるだけで「自動的に」幸せになるような素晴らしい季節だ。

春の快適さは、太陽との距離が「ちょうどいい」ということに他ならない。そして太陽が僕らにとって「恵み」なのも、地球と太陽との距離が「ちょうどいい」からだ。

言い換えれば、僕らにとって恵みなのは、太陽ではなく、太陽との「間」である。恵みは適切な「間」にある。

僕はこのレトリックがけっこう好きで、いろんな場面で意識している。

友人であろうが、恋人であろうが、家族であろうが、自分が彼らと良い関係を続けていられるのは、物理的にも精神的にも、適切な距離(間)を保っているからだろう。関係とはその「間」のみにあって、友人や恋人のような関係性を表す記号の中には何もない。

間次第で、太陽が恵みにもなれば、生命に関わるような敵にもなってしまうのと同じように、人間も間の取り方を間違えれば、お互い悪い部分を出し合って恨み合ったりもする。まさに字のごとく「間・違える」である。相手が善い振る舞いをするように、自分も善い振る舞いをする人間でいられるのは、互いに「善い」間があってこそ可能なのだ。

つまり、物事の本質はそのもの自身にあるのではなく、「間」にある。

他者との間、仕事との間、お金との間、社会や国家との間、自然との間、上げれば切りがないが、自分と関係するものとの「間」こそが自分にとっての価値であり、意味である。そして適切な「間」をとることが自分を快適に保つ源泉であり、どのくらいの間が快適なのかを知ることが、自分を知ることなのかもしれない。そして常に流動的に動く「間」こそ、「諸行無常」であり、これを固定化しようとしたり、損得感情で決めたり、周りに合わせたりすると、うまくいかなくなるのは宇宙の真理といってもいいくらいだ。

万物はそれぞれ適切な「間」を与えられ、相互に存在している。当然人間にもそれぞれ適切な「間」というものがあり、それが生き方に反映され、オリジナルな人生が展開されるのだろう。太陽と適切な間の春を楽しむように、僕は自分の「間」には忠実でありたい。

「間」には物質的には何も無いのに、本質は全てそこに有って、物質そのものには無い。そんな仏教的であり量子力学的でもあるような面白い「関係」を考えながら過ごす、平日の大濠公園は今日も平和だ。

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忙しく動く社会と、自分との間は、今はかなり広めのようである。

 

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