アートがよくわからないけどちょっと興味がある人向け 現代アートの見方ガイド

アーティストとして作品を発表しだしてから4年が経つ。デザイン畑出身の自分にとって、アートという分野は似て(かなり)非なるもので、僕自身その「意味のわからなさ」に惹かれて、アート界に足を踏み入れた。

芸術を神聖なものとして語る夢の世界と、それを天文学的な金額で取り引きする現実の世界。そんな人間社会の両極端をスイングするように、一つのものとして共存させてしまう「アート」、とりわけ「現代アート」という異種格闘技戦に、好奇心から参加して早4年、今もアートを通して見える人間社会を、いちプレイヤーとして面白く観察している。

アート活動を始めてから、「アートがわからない」という相談をよく受けるようになったが、それも当たり前の話で、アートには様々な見方があり、作品に対する価値の置き方も人それぞれ。僕も勉強を兼ねて美術に関する本を複数読んできたけれども、著者によって言ってることがここまで違う分野も珍しいと思う。まあそれが人間社会を全方位に包括しているアートの魅力とも言えるのであろう。

とりあえずアートに関する質問を頻繁に受けるので、ここらで自分なりに勉強してわかった「アート」という世界を、いくつかの側面に分けてまとめてみようと思うので、アートに興味がある人は参考にしてみてほしい。

側面01:美術史がアートのルールブック

まずはアートを知りたいなら、兎にも角にも美術史を知るところから始めないといけない。美術史を知らずにアートを見るのは、ルールを知らずにスポーツを見るようなもの。もちろんルールを知らなくても楽しむことは十分可能だ。先の冬のオリンピックで、カーリングが盛り上がったけれども、ルールを知っている人はあまりいなかったはずだ。しかしそのスポーツを深くじっくり鑑賞し、他のファンとの会話を楽しみたいならば、ルールを知らなければならない。

美術史には、歴史に残っているアーティストや作品たちが、どのように評価されてきたのか、歴史的背景をもとに紹介されているので、作品を見る際には大いに参考になるだろう。もちろんスポーツのルールのように、絶対的な基準はないし、その時々で評価は雲のように移り変わるけれども、その評価の遍歴を知れば、アートと呼ばれるものの全体像がつかめるはずだ。そして現代を生きるアーティストが作る作品も、その遍歴の延長線上にあることを頭におけば、作品の見栄えのみに左右されない、俯瞰的な評価をすることができるだろう。

美術史も世界史と同じように、歴史に楔を打ち込んだ人物や作品が評価される。今は当たり前のように評価されているアート界の巨匠たちも、当時の流れや権威に反旗を翻し、新しい流れを作った人が多い。なので、今は巨匠でも、当時は理解されず、死んでから評価されるアーティストがほとんどだ。

20世紀に入ってからは、時代の流れの速さと比例するように、次々と新しいことを始めるアーティストが現れる。ペンキを全体的に垂らして作品にした人、キャンバスを破いて作品にした人、シルクスクリーンで有名人の顔を刷って「アートだ」と主張した人が巨匠となった。中でも特筆すべきは、マルセル・デュシャンというアーティストの「泉」という作品だ。彼の作品や主張を知れば、絵画や彫刻のような旧来の芸術分野を突破(破壊)した、現代アートという「異種格闘技戦」の流儀の一端がわかるだろう。

側面02:上流階級(ハイブロウ)の教養ゲーム

アートとはもともと貴族のものだったので、「ハイブロウ(教養人やインテリという意味)」のジャンルに属するものだ。要するにアートとはインテリやエリート向けのもので、楽しむには一定の教養や知識が必要となる。それに対して「ロウブロウ」な作品は、漫画やアニメ、テレビドラマのような、誰でも楽しめるものだと解釈して問題ない。

この「ハイブロウ」という概念が、日本人がアートを理解するのを難しくしている要因のように思う。村社会が文化のベースにあり、一億総中流社会(だった)日本では、インテリやエリートのような特権的な存在は忌避されがちで、誰でも楽しめるロウブロウな漫画やアニメが盛況し、ハイブロウが入り込む余地がなくなったのは必然だったのかもしれない。それによりアートも、ただ「自由に表現すること」に主眼が置かれすぎて、知識や教養の部分が置き去りにされた結果、近寄りがたいものになってしまった。

これも上記の美術史と同じく、知識があったほうがより深く楽しめることを意味する。キリスト教の知識がなければ、イタリアにあるレオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」を見ても、単なる人物画にしか見えないだろうし、宇宙人が初めて地球に来てピラミッドを見ても「でかい!すごい!」としか解釈できないだろう。

ハイブロウなアートにおいて、作品を理解するためには、受け手側は相応の教養が求められる。あなたがもし、世界の上流階級やグローバルエリートなるものと付き合いたいならば、最低限アートを観て、自分なりの解釈ができるだけの教養は必要だろう。彼らはアートを通して、そのような知的ゲームを楽しんでいる。

逆にいえば、知識や経験が増えれば増えるほど、アートはその教養に応えてくれるだろうし、そういった見方の変化こそ、アートを楽しむ醍醐味かもしれない。歴史、文化、哲学、宗教など、受験勉強だけではない幅広い「教養」をつけることは、この社会、時代を俯瞰的に理解し、アートをより深く味う手助けをしてくれるだろう。そしてアートと社会は常にリンクして歴史を刻んでいることに気づくはずだ。

そんな「ハイブロウ」という日本には馴染みのない概念があることも知っておいたほうがいい。アートとは時間をかけて、生涯をかけて楽しむことができる。漫画やドラマのように、今すぐにわからなくはいけないものではない。

側面03:金融商品としてのマネーゲーム

そんなハイブロウな上流階級な方々には、常にマネーはつきもので、彼らの評価が高いものには、我々庶民には想像できないほどの金銭的な価値がつく。それが昨今の現代アートバブルを作り出していて、一般の方々が近寄りがたい、というか理解できない要因となっている。

「なぜ何の役にも立たない一枚の絵に、数億円の価格がつくのか」

一般庶民である僕も最初はそう思っていた。

ただ考えてみれば答えは簡単で、それは「希少価値」と、「投機的」であることに尽きる。

まず希少価値は、お宝鑑定団のような番組で出される価格と同じ仕組みだ。何の役にも立たない壊れた茶碗があり、茶碗自体には何の価値がなくても、それが「千利休が愛用してた」とわかった途端に、金額が一気に跳ね上がる。最近も、とあるキリストの絵が、レオナルド・ダ・ヴィンチの作品であると判明した結果、記録的な金額で取り引きされることになった。

では、まだ評価も定まっていない、今を生きるアーティストの作品が、なぜこれだけ高価で取り引きされるのかといえば、「先物取引」である。今後有名になりそうなアーティストの作品を安いうちに買って、価値が高まったら売って利益を出す。そう、アートは今やビジネス誌のトップを飾るような、極めて「金融商品的」な存在でもあるのだ。

数万円で買った駆け出しのアーティストの作品が、数年後には数億円になるかもしれない。そんなエキサイティングな「商品」を、お金大好きなお金持ちの方々が黙って見過ごすわけがない。そうやってアート界の大御所の批評家やキュレーターの評価は、日銀やFRBが株価に及ぼすそれと同じような役割を果たすようになり、オークション会場は金融取引所のようになった。

さらに海外ではアートを購入すると節税になるシステムがあるので、マネーがマネーをよび、アートマーケットの過剰な加熱は今後も収まりそうもない。

こうして若くして財を築くアート界のスーパースターが生まれる一方、作品を金額で評価され、数字の乱高下に翻弄される運命をアーティストが背負うことになったのは、音楽業界と似ているのかもしれない。

当然このバブル的な相場には、批判は多くあるし、アーティストは市場との距離の取り方を考えていかなければ命取りになり得るゆえ、気をつけなければならない。しかし僕はそれを含めてアートだと思っているので、否定はしないし、人間社会とアートは密接にリンクしている以上、これを止めることは不可能だと思う。「何か」が起こらない限りは。

側面04:自分との対話型

以上のような現代アートを取り巻く状況を踏まえつつも、作品を純粋に作品として楽しむことももちろんありだ。むしろそちらのほうが、本来の芸術の楽しみ方なのかもしれない。

僕らは春の木漏れ日に癒されたり、雲の隙間から差し込む一筋の光に希望を感じたりする。その感情に理屈はなく、対象物と自分の内面との間に起きる化学反応により、感情を動かされ、影響される生き物だ。

そのような自然を見るのと同じような感覚で、作品と自分の内面との「対話」を楽しみ、印象に残る作品を探すのも、アートを見にくる醍醐味だろう。会場を足早に見回るのではなく、気になる作品があれば、足を止めてじっくりその作品を眺めてみてほしい。作品のコンセプトや理屈はもちろん大事だけれど、けっきょくのところ、好きな作品というのは、理屈が遠く及ばないところにある、無意識的な領域で魅力を捉えているのかもしれない。

側面05:現代人として現代をどう見るか

現代アートを楽しむには知識を要することは先に書いた通りだが、過去の人物が生み出した作品ではなく、今リアルタイムに生み出されている「現代アート」を見る場合は、批評のバトンは同じく現代を生きるあなた自身にあることを、最後に書いておきたい。

まだ歴史書に記録されていない、「なまもの」の現代という時代をどう解釈するかは、現代を生きる僕ら「現代人」に委ねられている。よって、作り手も受け手も、同じ現代という時代を生きる人間である以上、平等であり、同じ目線で作品を見て、作品を通して見える現代という時代性について、アーティストと対話するのも面白いだろう。アーティストは話すのが不得手な人も多いけれども、喜んで対応してくれるはずだ。

表現をすることは、アーティストの専売特許ではなく、現代を生きる誰もが、何かしらの方法で行っている。話すことで、文章にすることで、写真で、絵で、音楽で…。特に現代のSNS時代は、「人類総表現者」の時代であるとも言える。その表現は、必ず現代という社会環境から生み出されている以上、あなたも現代アーティストなのかもしれない。そのように、同じ現代を生きる表現者として、作品やアーティストとの対話を楽しんでほしい。

おわりに

現代アートを見る上で、いくつかの側面を書いてきたが、最終的に、どのように作品に価値を見出すかは、「それぞれの自由」という結論まで持っていけたので、今回はこのへんでやめようと思う。だいぶ長くなったが、外部からアート畑に飛び入り参加して、自分なりに見えてきた「現代アート」というものを一度まとめておきたかったので、ここまで書けて満足である。

アートを通して、作品の理屈やコンセプトを楽しむのもいいし、色使いや形を楽しむのもいい。自分の内面を探索するのもいいし、今の時代性を考えるのもいい。アーティストの素質を見極め、投機的に作品を購入することも悪いことではない。なんにせよ、自分を豊かにするために、アートというものを使ってみてはいかがだろうか。

 

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