フリーになって8年目の春、僕は雲になる。
早くもフリーランスになって8年目の春を迎え、サラリーマンの期間より長くフリーをやってることに気がついた。
その間、まあデザイナーらしくデザインの仕事もしていたけれど、他にもお金になったならない関係なく、文章書いたり、写真撮ったり、旅行に行ったり、最近はもっぱらアーティスト活動と称して作品を作ることに精を出している。
それ以外にも、拠点を福岡に作ったり、公園でのんびり読書しては、いろんなことに思考を巡らすことが多かった。というか今も多い。
そう考えると、自分はこの7年一体何をメインにやってきたのか、正直なところよくわからない。
一応世間には「デザイナー」と「アーティスト」という肩書きで通している。なぜならそれが一番理解してもらえるから。
でも自分的には、「読書家」とか「とりあえず何かと思考家」とか「近所の大濠公園で写真家」みたいなほうが自分の生活をうまく表しているように思わなくもない。
それらのすべてが結びついて、デザインやアート作品として世に出るわけだから、そこに境界線を引くことは事実上不可能である。
数年前までは、そんなモヤっとした状態は何となく嫌で、世間一般の若者のように「何者か」になったほうがいいんじゃないかと思っていたけれども、最近はそんな「よくわからない」状態で何の問題もないし、そっちのほうがフレキシブルで、時代的に好都合なのではないかと思ってる。
最近様々な業界で「賃金が下がった」とか「これじゃ食っていけない」的な悲鳴のような言説を聞く。僕のいるクリエイティブ(と言われている)業界ももちろん例外ではない。
昨今のテクノロジーの盛況を見ればそれは当然の結果だ。テクノロジーは人間の能力を拡張させるから、以前はある程度トレーニングを受けた専門の人じゃないとできなかったことが、一般人でも普通にできるようになった。その分「専門」としてのうまみはどんどんなくなっていく。
僕が「デザイナー」としてご飯を食べられるのは、まだその専門によって付加価値がつけられるからだろう。ただしそれもいずれはテクノロジーによって溶けてなくなる運命なのは間違いない。
そう、今の世間一般で認知されている「肩書き」は、今後急激に溶解が進む、もしくはある時点で突然消えてなくなる可能性が高い。僕らはそんな時代に生きており、そんな状況で「何者か」になってしまうのは、何かとリスクが高いように思う。なぜならその「何者」でいられる期間は、これからどんどん短くなり、それだけで一生涯を持ちこたえることはかなり困難になってくるからだ。なんにせよ一つの職業で一生を全うするようなことは、いずれ普遍性を失っていくことだろう。
なので、複数のジャンルを横断するように活動していたほうがいいと思うし、そもそも僕は学生の頃からそんな風に活動したいと思っていたので、考えようによっては大変ありがたい時代に生まれたともいえる。フリーのデザイナーになった動機も、デザイナーに本腰を入れるためではなく、逆にデザイン以外のこともできるような環境がほしかったからだ。
これからのテクノロジーの発展が、人智では追いつけないところまでいくことを考えると、一生涯を通したキャリアパスを考えることはもはや不可能だ。そんなファジーな未来に対応するには、自分もある程度のファジーさを持って、雲のように形を変えながら対応するしかないと思う。
そうだ、雲だ、雲。
雲のようにファジーに生きる。僕は雲になろう。
そんな言い分を大義名分に変え、これからも興味の赴くまま、好きに生きていこうと思う。
大濠公園は今日もいい天気だ。
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