明日死ぬかもしれない対策

俳優の大杉漣さんが亡くなった。

亡くなる直前の写真を見て、「どう見ても亡くなるようには見えない」という感想を持つのは僕だけではないだろう。健康そうだし、エネルギーも充実しているように見える。おそらく大杉さんご本人も同じように思っていたのではないだろうか。

一方、うちの実家には「マメ」というもう20歳を迎える老猫がいる。

年が年だけに、体の至るところに不調がきており、もう治る見込みもないため、おととしくらいからいつ死んでもおかしくない状態だ。やせ細り、ヨロヨロ歩きのマメを見るたびに、もう彼と会うのはこれが最後かもしれない、と思いながら実家を離れるわけだが、今日も相変わらずヨロヨロ歩きのまま生きており、「いったい彼はいつ死ぬんだ?」という話を家族とする始末である。

ホント死期というのは選べないものだなと実感するし、僕は死を客観的に眺める術をまだ知らない。というか一生わからない気がする。

「もし今日が人生最後の日だとしたら、今やろうとしていることは 本当に自分のやりたいことだろうか?」という格言を残したのは、スティーブジョブズである。この間誕生日だったらしい。

自分の死を客観的に眺めることができなくても、「明日死ぬかもしれない」「今日が最後かもしれない」と考えることはできるし、それが宗教的な専門を持っていない自分にとって、死と向き合う唯一の方法かもしれない。

僕は仏教が好きだが、仏陀のようにすべてを悟って死を受け入れることは多分無理で、執着を捨てられずに、後ろ髪を引かれるように最期を迎えるに違いない。ならばその執着心を最大限利用して、この有限なフリータイムを、いかに納得して過ごせるかにリソースを注ぐしかない。

人は基本的に「やりたいこと」と「やらざるを得ないこと」しかやっていない。

仕事や勉学、人との付き合いなど、「やらざるを得ないこと」に生活の大半の時間を取られる人が多いだろうし、世間的にもそっちのほうが尊いと思われているけれども、人生の有限性から考えれば、「やりたいこと」こそが、「やらなければいけないこと」なのではないだろうか。ゆえに「やらざるを得ないこと」が、本当に「やりたいこと」を抑えてまでやらざるを得ないのかは、よく考える必要がある。

収入や地位などの社会的な尺度は、死を前にすればすべて無に帰すものだし、それが本人の幸福を保証するものでは「全くない」ことは、成功者と呼ばれる方々の人生が教えてくれている。どんな人生を送ろうとも、けっきょく最後に残るのは、本人の納得しかないのだ。

「明日死ぬかもしれない」ならば、納得しないことをやる時間の価値はいかほどだろう。「明日」は極端だとしても、いずれ自分の人生を自分で「審判」する時が必ずやってくる。「今回の人生どうだった?」という自身の問いに、どう答えるかを考えれば、おのずと何に己のリソースを割くべきかの優先順位は決まってくるであろう。

僕は昔から、自分が納得しないことは、誰に何と言われようともやらないし、逆に自分が納得すれば、誰に何と言われようともほぼやってきた。それでいろいろ大変なこともあったけれども、通過した紆余曲折の日々を、今はいい思い出として受け入れられているのは、自分の納得あってこそのことだと思う。これからも僕はやりたいことをやるし、一緒にいたい人と一緒にいるし、行きたいところに行く。逆にそれ以外のことは、死を前にすればすべてが「取るに足らない」ことにすぎない。

今月は世田谷ものづくり学校で作品を展示する機会をいただき、行ってきた。
僕がアートが好きなのは、それぞれの作家が自分の作りたいものを(社会的な価値があるかないかわからないものを)大真面目に作っている点である。彼ら自身のオリジナルな「納得」を見て、話を聞くのは実に面白く、たとえ意味がわからなくとも、僕にとってはとても価値があるものだ。

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そして僕の場合は「こんないいアイデアを思いついたのに、アウトプットせずに死ねるか!」というのが作品を作る原動力だったりする。死に際に、「あれを作っておけばよかった…」なんて思うことだけは絶対に避けたい。「やれたのに、やらなかった」ことは、最期まで自分にエクスキューズを許さないであろう。

「明日死んでも悔いが残らないように生きる」とは、所詮綺麗事だし、仏陀でもない限り悔いを残さずに死ぬことは無理だろう。しかしけっきょくのところ、「明日死んでも悔いが残らないように生きる」ように頑張ることしか、遅かれ早かれ死ぬ以外道がない僕らの、「残された時間」を価値のあるものにする方法はないように思う。

「今でしょ!」と僕に語りかけるのは林先生ではなく、死という有限性だ。

 

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