楽しさと役割についての考察
先日立ち寄った本屋に、「レタリングマスター」というレタリングの雑誌が平積みされてまして、ちょっと立ち読みのつもりが、あまりにも魅力的で買ってしまいました。
自分は手作業とPC作業の両方を経験している世代だと思います。今は仕事のデザイン活動を含め、大半の作業はPCで行っていますが、お絵描き少年だった頃に知った、手を動かす楽しさは、まだ体が覚えています。なのでこういう描いたり・切ったり・作ったりという内容の雑誌を見ると、意識の奥底に潜む少年の自分が、そのまま素通りさせてはくれません。
手作業というのは、文字通り「手間」のかかる作業です。しかしその手間の中にこそ、僕を夢中にさせてくれる世界がありました。
東京の自宅の本棚に、とある書物があります。学生時代に使っていたコンパクトな英和・和英辞典です。
見ればわかると思いますが、カバーはオリジナルを真似て作ったものです。オリジナルのカバーが壊れてしまったので、型紙にペンでそっくりそのまま書き写しまして、組み立てました。
まだPCなんて触ったこともない時代でしたから、文字も一文字ずつ全て手書きでした。その技術をレタリングというのですが、PCが作業の中心となった今では、不要な技術かもしれないですね。作った当時はまだレタリングというものをよく知らなかったので、技術的にはまったく未熟でしたが、純粋に手を動かして作ることがとても楽しかった時代でした。
余ったスペースには当時行ってみたかったオーストラリアのウルル(エアーズロック)の絵と、なぜか地球のシールが貼ってあります。エアーズロック、すごく行ってみたかったんですよねぇ当時。
部屋にこもって辞典カバーを黙々と作っていたあの頃のノスタルジーは、自分の原点であり、例え未熟な仕上がりであっても、このカバーは僕の宝物です。
僕は本や写真は全てデジタル化し、デバイス上で見るような、どちらかといえばデジタル寄りな生活をしており、デジタルにできるものはなるべくしてしまいたい人間です。理由は「便利」だからです。よって上記の辞典カバーは、PCがあれば短時間で正確なものが作れますから、今はそうすると思います。しかしだからといって、それで当時の「楽しさ」まで再現することは決してできません。
楽しさとは、情熱をエンジンにして、山を登るようなものです。山が険しければ険しいほど、情熱のエンジンは激しくまわり、身も心も俗世間の面倒な世界から解き放たれ、充実した自分世界に集中できる、とても幸せな時間が過ごせます。そしてそれは、利便性や効率性といった軸の外に存在しており、楽しい時間の確保のために、利便性や効率性があるのだと解釈したほうがいいと思うのです。
「ただ楽しいからやる」という世界に、いかなる理屈も入り込むことはできません。それが自分に与えられた世界だからです。その世界に素直であることは、自分の人生を楽しむために不可欠であると、経験上思います。そして突き詰めて考えれば、それこそが自分に与えられた「役目」なのではないかと思ったりするわけです。いや思うというより、そういう解釈以外に、「なぜ自分はこれを楽しいと思うのか」を説明できる言葉が見つからないのです。
そういう視点から眺めると、自分にとっての楽しさとは、そして役割とは何なのかを教えてくれるこの辞典カバーは、繰り返しますが、僕の原点であり、宝物であると言えます。そんなことを思いつつ、久々に筆を握って絵を描いている今日この頃です。
↓2006年に念願叶って行けたエアーズロック。
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