エネルギー体としての生命と存在論 ver.38

38歳の誕生日を迎えてしまった。僕も立派なアラフォーだ。誕生日だからといって、喜ぶような年でもないけれども、それでも自分の人生について振り返ったり、考えたりするにはいい日だと思っている。

ここ数年の間に、スティーブジョブズを始め、デビッドボウイやプリンスなど、学生だった頃に光り輝いていたスターがこの世を去り、何かと「死」について考えさせられることが多くなった。それと同時に、自分もそろそろ本腰を入れて生きないと、後悔するのではないかと、人生の残り時間を少し気にしながら思うような年になったと、最近実感する。

それらを踏まえ、今回は自分の「生きる」に対する考えをまとめてみようと思う。ずっと機会があれば文章にしてみたいと思っていたけれども、話がかなり現実から飛躍するので、なかなか書く目的とモチベーションが合致しなかったんだけど、今日は誕生日なのでちょうどいい。がっつり書いてみようと思う。

2年前くらいから宇宙や自然科学の話に興味を持って、多くの本を読んできた。宇宙や自然の謎めいた「仕組み」を興味深く探究していく過程で、その仕組みと自分の存在との関係性にまで、思考が延長してしまうことがよくある。

この広大な宇宙空間で、なぜ自分が「在るのか」。量子論の登場により、自分の存在すら仮説に過ぎなくなってしまった。しかしながら今自分が「在る」と「感じている」意識は確かにあるわけで、その意味や役割の、自分なりのロジックはきちんと持っておきたいと思う。それが仮説に過ぎないとしても。

現代物理学によれば、あらゆる物体は、元をたどれば単なるエネルギー体であり、その意味では自分も、宇宙も、一つのエネルギー体に過ぎない。それなのにわずかな時間であれ、自分という「個別」に独立したエネルギー体として存在し、「一つの意識を持って生きている」のは、それなりの意味があるに違いない。

そこで自分なりの仮説なんだけれども、僕ら生物はエネルギー体に過ぎないのだから、生まれる前から個々人に与えられているエネルギーの量は決まっていて、そのエネルギーをどう使い果たすかが、その人に与えられた人生であり、意味なのではないかと思う。

そのエネルギーは、宇宙のシステムの一部を担う「機能」であり、僕らは好き勝手に生きているつもりでも、体の中の細胞のように、機能の一部として働いているのだろう。

一つの機能として、宇宙からの指令はどこかで受信しているはずで、それはミトコンドリアなのではないかという学者もいるが、僕はずばり「魂」だと思う。その魂は、無意識の中を魚のように泳いでいる。(3年前に「シーラカンス」という名前でメタファー的にブログに書いたことがある)形はおそらく水木しげる先生の漫画に出てくる風船が細長くなったような感じだと推測している。漂うように泳ぎ、自分では泳いでいることすら気づいていない。そんな無意識の中を泳ぐ魚は、受信された指令を、好奇心や衝動のような形で意識の上に表出させ、僕らを動かす。

ゆえに僕らは好奇心には素直に従わなければならないし、「やりたいと思ったこと」は「やらなければならない」。それこそが宇宙からの指令であり、使命であり、自分が自分でいる意味であり、唯一のオリジナリティだ。僕らはそのためにエネルギーと時間が与えられている。生きることとは、機能を果たすことだ。

それは合理的なことではないかもしれないし、金も儲からないかもしれない。そもそも名前すらついていないことかもしれない。でもそんなことは関係ない。宇宙のシステムは人知の及ばないところで動いており、たかが人類が作り上げた狭い価値や仕組みなんかにフィットするほうがおかしなことだ。

もちろん魚の声を無視することもできるし、大人になればやらない理由はいくらでも作ることができるだろう。しかしその理由がいくら説得力があるものでも、無意識を泳ぐ魚を騙すことはできない。それをやらないことで不満はたまり、やらなくてもいいことをやり続けるとストレスがたまる。なぜなら意識的であろうがなかろうが、すでに「わかっている」からだ。ゆえに人間社会でいくら成功を収めていても、魚の指令に背いていれば、そのツケは人生のどこかで、悪い形で表出することだろう。良い悪いの問題ではなく、もうそう「仕様」なのだから仕方がない。

無意識の魚は人生のリーダーであり、行くべき場所に泳ぎだす。そして意識上にある自分はマネージャーであり、現実社会で到達可能な手段を模索しつつ、自身をマネージメントしながらトライ&エラーを繰り返して進んで行く。そうやって魚という「魂」に、脳と体をシンクさせながら進んで行くことが、エネルギー体としての自分の生きる役目であり、自分が「在る」理由なのではないか、というのが、38年生きてきた今日の落とし所である。

二十歳の頃、家でずっとMTVなどのミュージックチャンネルを見ていて、そこには当時ヒットしていたSavage Gardenの「Affirmation」という曲のミュージックビデオが頻繁に流れていた。そのビデオでは過去の歴史的な映像がたくさんつなぎ合わされていて、まるで近代の人類史を見ているような感覚になったことを覚えている。印象的で、いろいろと考えさせられる映像だった。

Affirmation – Savage Garden

それを見て思うのは、けっきょく人類の発展も過ちも、すべて人間の好奇心から来ている、ということだ。どんな強力な倫理観や宗教観も、決して好奇心を止めることはできない。地球の生態系による生存競争から抜け出てしまった人類は、自らの好奇心によって繁栄し、最終的には自らの好奇心によって滅んでいくことだろう。だったら自分のやることも、好奇心に素直に従う以外にあるまい。

「好きなことをやって生きよう。それで何を失っても構わない」と子どもの頃から思っていたが、今思えば、失うどこか、多くのものを得ることができ、道に迷うこともなく、満ち足りた生活が送れていることを、有難く感じている自分がいる。けっきょくのところ選択肢が無限にある自由な世界で、惑わされることなく生きるには、好奇心という一つの選択肢にエネルギーを捧げる以外にないように思う。「あの時あれをしておけばよかった」などと思いながら生きるのは実に寂しいことだ。できれば最期は納得して迎えたい。

魚に従って歩んでいけば、きっと宇宙は良きものを与えてくれ、良き風景を見せてくれることだろう。そんな「希望」がある限り、自分は何歳になっても若くいられるはずだ。と、先週のトレーニングで筋肉を痛め、もう若くないと脱力している自分にいい聞かせる38歳の初ブログでした。

アラフォーの筋トレはほどほどに。エネルギーのご利用は計画的に。

以上おしまい!

 

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