できそこないの男論

最近面白い本を読みました。福岡伸一先生の書いた分子生物学による男女の役割論的な本で、その名もずばり「できそこないの男たち」。

できそこないの男たち (光文社新書)

本によると、地球に生命が誕生してから10億年は女(メス)のみで成り立っていた世界で、男(オス)は、遺伝子の運び屋として、メスの遺伝子を変形させた形で誕生したとのこと。アダムがイブを作ったのではなく、イブがアダムを作った、しかも平等な関係ではなく、アダムは完全なるイブの「使いっぱしり」であり、用が済んだらさっさと死ぬ運命という、身も蓋もないような何とも悲しい話です。

要するに生命体の主役は女であり、男は特定の役割を果たすために作られた「女の劣化版」ということらしいんですね。ゆえに女よりも弱く、病気になりやすく、短命であるとのこと。なんてかわいそうな男!泣けてくる!

その後も女は男に遺伝子の運び屋以外にも、エサをとってくることや家を作ること、子どもを一緒に育てることなど、あらゆることを命令し、男はただそれに必死に従い続けて現在に至っているわけです。人類の場合はその過程で男のほうが女よりも力を持つようになってしまっているわけですが(その理由も書いてありますがここでは割愛します)、それでも結局、男の悲しき性(さが)はそのまま残っています。

上記の遺伝子の話を読んで、僕が今まで抱いていた「男」というものに対する考えととてもシンクロした上に、整理整頓された感じがするので、今回は、これを踏まえて、僕なりの「男論」を書いてみたいと思います。

 

■「男らしさ」は「死にやすさ」

これは日本だけでなく、世界各国共通のような気がしているのですが、男の美しい生き方を描いたストーリーって、たいてい男は最後に死ぬんですよね。男の美学を追求すると、そこには必ず「死」に行き当たってしまいます。武士や戦士は言わずもがな、明日のジョーとかもそうですね。何かと戦って、最後に散る。それこそが「男らしさ」を主題にしたストーリーの王道です。男というのは何かのために犠牲になったり、「殉ずる」ことに底知れぬ美学を感じてしまうものですよね。

僕は男ですが、できれば長生きしたいので、そういう男的な美学からは距離をとってきたというか、ちょっとバカにしてたところがあるのですが、遺伝子的に見れば、実に正しい役割であり、「美学」なのかもしれません。どうしても男が役割を果たして滅びる方向にいってしまいがちなのは、遺伝子のせいなのでしょう。男性が圧倒的な権力を握り、女性が虐げられているような国や民族は常に不安定で滅びやすいもの、このせいかもしれませんね。

とはいえ、この現代社会日本では、そのように美しく散れるような環境はほとんどないですし、社会的に全く歓迎されません。役割があろうとなかろうと、最後まで寿命を全うする以外の選択肢はないのです。何かと戦っている男のストーリーはたくさんあれど、戦いが終わり、日常に戻った男の姿は決して描かれません。絵にならないからです。しかし実際の僕ら男は、その絵にならない日常で生活し、絵にならない最期を迎えることになるでしょう。

 

■狼の皮を被った迷える子羊・男

僕は子どもの頃から、体育系的な男社会には馴染めませんでした。そして今も「男」を全面に出すような人とはあまり親しくなれません。その理由の一つに、彼らの持つ独特な「男性観」に賛同できないからです。

まずもって「男が女を守るもの」という男性上位的な態度が気に食いません。そもそも男はそんなに強くないし、女より男が強いなんて単なる思い込みだと昔から思ってました。

小学生の頃、僕は西武ライオンズのファンで、そこには若かりし頃の清原選手がいました。当時の清原選手はさわやかな好青年で、4番として大活躍していたことを思い出します。しかし清原選手はその後、格闘家のようなマッチョな体に、坊主頭の強面という風貌に変化し、いつの間にか「番長」と呼ばれるようになっていました。

これでもかというような「男的」な風貌と言動で世間を騒がせ、彼が書いた自伝のタイトルはずばり「男道」です。表紙からかなりきてますね…。

男道 (幻冬舎文庫)

しかし引退後の彼の生活は、妻子に逃げられ、マスコミに苦しめられながら、家に引きこもって自殺すら考えるという辛いものだったとご自身で語っておられました。そこには一連の風貌や言動とは裏腹の、「かよわい」男の姿があったのです。

僕が男社会的な「強い男」像にリアリティを持てないのはここにあります。けっきょく体力にものを言わせて強がってるだけで、中身は柔軟性のないひ弱なメンタリティ、そして体が衰えれば女性に守ってもらうしかない男のどこが強いのか。僕自身が男であるゆえに、そんな強がりの裏側にあるもろさは、身をもってわかってしまうわけです。

しかし今回この本を読んで、男の圧倒的な弱さが遺伝子的に整合性があることが確認できたと同時に、上記のような男の空虚な強がりも、また遺伝子によるものだから仕方ないんじゃないか、とも思うようになりました。

男がやせ我慢して「強い男」を演じるのも、けっきょくのところ数十億年「主人」として君臨している女を喜ばせるためなんじゃないか、と思うわけです。現にそういう男を好きな女性も多いですからね。強さを演じることが問題なのではなく、実際に強いと勘違いしてしまうのが問題なのでしょう。そんな勘違いの「強い男ごっこ」に愛想を尽かされ、女が自分の元を去った時、初めて勘違いしていた自分に気づくのです。強い男を演じるのはあくまで女のためであって、女を苦しめてまで強い男を演じるのは完全に本末転倒です。

一応断っておきますが、僕は清原選手を批判しているわけではありません。男としての役割を間違えただけで、彼自身は誠実で情け深い人なのではないかと推測しています。チャンスにめっぽう強い西武時代の清原選手は、実にカッコイイ男でした。

 

■できそこないの存在としての幸福論

著者の福岡先生は、昨今の男の草食化の原因は、女が自立してしまい、男に命令しなくなったからではないかと仮説を立てておられますが、僕もかなり賛成です。

男が女を助け、役に立つことでのみ生存を許された存在であることを考えれば、女性の役に立たない男は、現代であろうとも、自分の存在価値を見出すことができず、自信を失ってしまうのは必然なのでしょう。

逆に恋人であれ妻であれ、パートナーの女に信頼され、感謝されていれば、どういう状態であろうと、男は生きる希望と自信は確保されるものだと思います。それは自尊心や自己肯定感を与えてくれるものでもあるし、もしも何かがあっても守ってもらえるという「安全保障」も意味しているような気がします。前述したように男は女より弱く、病気になりやすく、老いるのも早いです。そんな時に守り、世話をしてくれる役は基本的に女しかいません。

最近はパートナーが見つからずに困っている女性の話をよく聞きますが、本当にパートナーが必要なのは男のほうなのは明らかです。いくら自由を謳歌したところで、その体力がなくなり、機能を果たせなくなった先に待っているのは孤独です。

失業した男が元気がなくなったり、急に老け込んだりするのは「機能を果たせなくなった男は無用」というメッセージが遺伝子レベルでプログラミングされているからのような気がしますね。一度その状態で孤独になってしまうと、挽回することはほぼ無理だと思います。一匹狼や孤高な生き方は聞こえはいいですが、遺伝子がそれを好意的に解釈してくれることはないでしょう。

それらのことを踏まえた上で、男の幸福とは何かを考えた時、やっぱり数十億年仕えてきた女を喜ばせること以外にないのではないか、なんて思います。今は幸運なことに、僕ら男は用が済んだらすぐに死に絶えるようなことはなく、ある程度生きることを楽しめ、女とも対等に付き合うことができます。しかしそれでも男としての役目は文明社会になろうが、産業革命が起ころうが、そう簡単には変えられないはずで、根本の存在価値はわきまえておいたほうが、間違いは起こさないような気がするのです。

それは女に媚びることではなく、パートナーになってくれた女性をきちんと幸せにすることでしょう。これは道徳的な話でも美談でもなく、男の起源というファクトから考えると、そういう結論になってしまうんですね。女性一人の信頼さえあれば、男は安心して生きていけますし、その女性がいる限り、男の役目がなくなることもありません。逆にそれができなければ、いずれ代償を払うことになるでしょう。

「できそこないの男」の人生の鍵を握っているのは、現代も変わらず女なんでしょうね。僕らの生きる場所は「女の手のひら」であると心に決めて、一生懸命転がればいいんじゃないか、と今は思っています。遺伝子の「できそこない」ならば「できそこない」なりに、不器用でも楽しく役割を全うしてやろうじゃありませんか。

 

■おわりに

この福岡先生の遺伝子論は、現代の悩み多き男女に大きな示唆を与えるものだと思うので、男も女も読んでみて損はないと思います。「男が女よりも強く、男が女を守ってあげるもの」というイメージがそもそも根本的に逆だという事実を知るだけで、だいぶ男女関係の視界は広がるような気がするんですよね。

男は自分らが「できそこない」であることを認めた上で女の人を見れば、対応は違ったものになるでしょうし、女も男をいたわるようにうまく持ち上げてあげれば、男は生き生きとその役目を果たしてくれることでしょう。そして僕の周りでうまくいっている男女は、だいたいそのような関係性のような気がします。

人と人との関係性において、間違った見栄やプライドは何の役にも立ちません。遺伝子は嘘をつきませんから、まずは根本の原理に戻って、男と女の役目について考え直すのもいいんじゃないですかね。この世に男と女がいるのは厳然たる事実ですから、どちらに偏るのではなく、ほどよく協力し合って生きるのが一番いいと思います。

以上が「できそこないの男たち」を読んで僕が思ったことです。まあ僕は極端に考えるクセがあるので、上記のようなロジックになってしまいましたが、皆さんはいかが思いましたでしょうか。

できそこないの男たち (光文社新書)

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