個の時代とオプション化社会

少し前に、「当たり前の幸せ」という文章をネットで見つけました。幸せに当たり前って贅沢な話だなと思いつつ読んでみると、なんてことはない、大学出て、就職して、結婚・子育て、そしてマイホームという、僕らの親世代が経てきたようなことを「当たり前」で、それが「幸せ」なんだそうです。

そんな「当たり前の幸せ」が我々の世代はできなくなってしまったという、よくあるブルース記事なのですが、「当たり前」とされていたことが「幸せ」なのかといえば、かなり疑わしいと思います。「当たり前」とは要するに、自分にとっても、身内や世間にとっても「やって当たり前」なわけで、裏を返せば、強制的、義務的で、他の選択肢が選べない状態ともいえるわけですから。まあ僕は嫌ですね。

というのも昔、明治時代の女性の結婚の話を聞いたことがありまして、ある日女性が父親に呼ばれ、部屋に行ってみると、父親の向かいに男の人が座っていて、「今日からこの人が旦那さんだ」と告げられたらしいんですね。今の感覚からすると信じられないことですが、当時はそうでもしないと女性は食べていく術がなかったので、珍しいことではなかったとか。

僕らの親世代はさすがにそこまで強制的な結婚はなかったのでしょうが、それでも年頃になれば、身内や世間からの結婚しろ圧力は今よりもすごかったでしょうし、それにより納得できない相手と仕方なく結婚する人もそれなりにいたのではないかと思ったりします。

それが「当たり前」の現実なのではないですかね。そしてそのような圧力やしがらみに反発してきたのが、戦後から現在までの歴史だと思います。なので、「当たり前の幸せ」がなくなったのではなく、「当たり前」を放棄した、が正しいところでしょう。それで幸せかどうかは、人それぞれとしか言いようがありませんが。

何にせよ、僕らの一世代前の時代の当たり前が、現在では「オプション」になったと言えると思います。「個の時代」と言われるようになって久しいですが、「個」の本質とは「自分で選択する」ことにあると思うんですね。つまり全ては「選択できるもの=オプション」になりました。僕はそんな現在の社会を「オプション化社会」と勝手に定義しています。

学業も、労働も、結婚も子育ても、すべてやるかやらないかは本人の選択であり、オプションの一つに過ぎません。自分が男であるか女であるか、パートナーを異性にするか同性にするかもオプションです。マイホームにするか賃貸にするかもオプションで、今後は住む場所を1箇所にするか、複数にするか、そして「定住する場所」自体を持つか持たないかもオプションになると思います。働き方はどんどん多様になり、8時間労働という既存の「当たり前」は近いうちに破棄され、働かないというオプションも普通になるのは間違いありません。

今現在の「当たり前」も、10〜20年後振り返れば、明治時代の結婚のように、そんな選択肢しかなくてかわいそう、と思われるようになるかもしれませんね。結婚できないと嘆いてる人の話をよく聞くようになった昨今ですが、裏を返せば、結婚よりも大事なものがあって、そっちを選択しているとも言えるわけです。一度結婚をした人でも、そっちを選択し直すために、結婚関係を解消する人も最近は珍しくないですからね。

選択肢が多様になったオプション化社会は、「選べる者」と「選べぬ者」という格差を生み出します。選択するには「意志」が必要で、今までのように受け身で通用するような社会ではなくなるでしょう。というか実際もうオプション化社会は始まっていると考えたほうがいいでしょうね。今の社会のジレンマは、オプションになってしまったものを「(未だに)当たり前」と勘違いしてしまっていることが大きな要因だと思います。高度成長時代に「モーレツサラリーマン」と呼ばれた人たちが、今は「社畜」と揶揄されるようになったのも、サラリーマンが「選べぬ者」の代表的な存在に位置付けられてしまったから(多分2000年代の起業家ブームあたりから)のような気がします。

オプション化社会によって、テンプレートのように同じ生き方をするマス(大衆)という枠組みは希薄化されますから、個々人の教養の大切さは増していき、学び続ける人と、そうでない人の差も開いていくでしょう。あと「自分探し」が若者の専売特許ではなくなり、年齢関係なく、それぞれの節目で自分を探し続けるようになるでしょうね。

でもその中で人々は気づくかもしれません。自分は「探すもの」ではなく、「自分で決めるもの」だと。オプション化社会を生きる上で、まず最初に決めて(選択して)おかなければないないのはそこではないかと、僕は思います。

 

関連記事