フラットになって凸凹になった世界

11年ぶりにアメリカを歩いて、ふと気づいたことがあった。11年前はNYを歩いていると、頻繁に日本人を見かけたが、今回は一度も見かけていない、と。

しかし実は見かけていないのではなく、もう一見で日本人だと分からなくなっただけだった。

11年前は道行くアジア人が、日本人なのか、そうではないのかは、けっこう容易に見分けがついたものだ。それはファッションや髪型、化粧など、雰囲気ですぐにわかった。きっと韓国人や中国人も同じように、自国の人間の見分けがついたに違いない。

しかし今は、すれ違ったアジア人が、日本人なのか、他の東アジアの国の人なのか、もしくは地元に住むアメリカ人なのか、ほとんど見分けがつかない。みんな同じようなルックスをしている。そしてそれはアジア人だけに留まらない。現に僕が日本から着ていったユニクロのウルトラライトダウンと、全く同じものを着ている人を何人も見た。

世界中のどの国の人もGAPやユニクロの服を来て、アディダスやナイキのシューズを履いて、同じような髪型や化粧で、MacBookを持って仕事したり、iPhoneを眺めたりしている。それはNYでも、数年前に訪れたクアラルンプールや台湾でも変わらない。今僕がブログを書きながら飲んでいるスターバックスのコーヒーは、地球の裏側でも同じようにブログを書きながら飲んでいる人がいることだろう。

これこそグローバルに繋がった、いや正しくいうとグローバルな巨大企業に支配され、ネットで情報が均一に行き届いた世界のフラット化現象なのだろう。そこに国境や、先進国、途上国といった区別はほぼ消滅している。

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その一方、アメリカにいるとあることに気づく。
多種多様な民族が暮らす「人種のるつぼ」ではあるけれど、彼らは同じ人種で固まる傾向があるのだ。フードコートにいけば、白人は白人と、黒人は黒人と、アジア人はアジア人と同じテーブルで食事をしている光景が見られるし、結婚相手も同じ民族同士であることが多い。

よく日本人は日本人同士で固まりやすいと言われるけど、アメリカ人だってそれぞれ同じようなバックグラウンドを持った者同士で固まっているのだ。

これを見て僕が思うのは、アメリカ人として同じ文化や言語を共有していながらも、各民族でそれぞれ「差異」が自然と出てしまうこと。やっぱり脈々と続いてきたDNAは簡単には変えられないんだなぁと、アメリカに住んでいた頃から感じていた。

アメリカでは自由と平等という理念からか、または長く続いた人種差別の反動からか、そういう「差異」を指摘することは許されない風潮があるけれども、僕はそろそろその「差異」に誰もが意識を向ける時が来ているというか、最終的にはその差異しかなくなってしまうのではないかと思っている。

国境という区切りがどんどんファジーになり、フラットになったからこそ表面化する個々人の凸凹(差異)が、これからの世界を面白くしていくに違いない。差別やレッテルのような負の記号に惑わされずに、お互いの凸凹を尊重し、活かし合うような世界が訪れることを、激しく凸凹しているNYの街で願った。

 

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