男女平等にするなら男を救うべき論

最近奥さんと別れて子供を引き取った、とある著名人をTwitterでフォローしてるんだけど、たまに子供とのコミュニケーションや、自分で作った料理のツイートが出てきて、彼の家事・育児への姿勢が立派で尊敬している。

日本では女性の社会進出は進んでいるが、なぜか男性の「家庭進出」はまったく進んでいないようである。それにより、女性が仕事も家事も育児も同時にこなさざるを得ない、極めて不平等な状況があって、もはや社会問題化しているといってもおかしくない。

この不平等の被害者は当然女性であり、いっこうに変化をしない男性社会に虐げられ、苦労している女性、という文脈で語られることが多い。

もちろんこの状況を解りながらも、変化をしない男性の怠慢さは責められるべきだと、男性である僕も思う。ただ、なぜ変化できないのか?ということを考えると、実は男性は怠慢というより、仕事以外に社会の評価軸がない、という悲しい性も原因としてあるのではないか。

子供の頃は様々な評価軸があった。勉強ができる、話が面白い、運動ができる、絵や音楽がうまい、ルックスがいい、喧嘩が強い、など、男女関係なく評価を与えられたものだ。しかし大人になるつれて、評価軸は男女で別のベクトルに進み、男性は仕事、女性は家庭に特化した評価軸が、社会の中で形成されていく。

戦後、家庭以外に仕事での評価軸も獲得した女性に対して、男性は未だ仕事のみの評価軸しかない。この不和こそ、不平等を生む一つの大きな要因のように感じる。

女性は仕事で結果を出せば評価されるし、仕事ができなくとも、家事や料理ができるとか、美人であるとか、性格がいいとかでも評価される。何より子供を生めるという生物的になくてはならない絶対的な価値がある。

しかし男性は未だに、仕事ができる(いわゆる食べ物をとってこれる)能力以外に評価軸がなく、それ以外の場所、例えば家庭内でいくら頑張ったところで、社会的には「仕事ができない男」という烙印を押された上に、仕事をしていないと「ヒモ」という記号で揶揄される始末である。

そう考えれば、男性が仕事だけに固執し、家事に手をまわさない(まわせない)のは、日本の労働状況を見れば必然なのではないだろうか。評価とはいわば「存在価値」のことで、それなしに生きて行くことはできないゆえ、男性も男性で自分を守るのに必死なのだ。

仕事上のことで自殺したり、鬱病になったりするのが男性に多いのもそのせいだと思う。仕事という評価軸のみに依存している多くの日本人男性にとって、逃げ道はない。日本の経済状況とともに悪化していく労働環境の中で、崖っぷちに立たされている男性は、働くことに必死にしがみついている。男性がそんな状態な限り、いつまでも女性はそのしわ寄せを受けることになってしまうだろう。

だから仕事という評価軸を得た女性と同じように、家庭という評価軸を男性に与えられないものかと思う。評価軸を男女関係なく共有できるような社会環境こそ、男女平等の実現には必須だと思うのだ。

家庭とは、夫婦のチームプレイだと思う。サッカーに例えて話すと、昔は攻撃と守備の役割がはっきりしていたが、今は攻撃の選手も守備をするし、守備の選手も攻め上がって点をとることが多い。そのように互いに攻撃(仕事)という意識を持ち、状況によってフレキシブルに守備(家事・育児)を負担し合えるような形が、これからの時代には適していると思うし、共働きで核家族がベースの現代では、チームプレイこそが命綱だ。それは互いを自由にすることであり、互いにリカバーできるリスクヘッジにもなる。

男女平等問題で男性を戦犯にするのではなく、もう一つのポジションを与えてあげること、すなわち評価軸の選択肢を増やしてやることで、性別に捕われない多様性が生まれるのではないか。そして男性のポジションチェンジが可能になれば、現代のサッカー選手のように、攻守両方の能力も義務化され、複数のポジションをこなすことを強いられてきた女性も、楽になるのではないかと僕は思うのだが、皆さんはいかがだろうか?

結論としては、女性の社会進出を推進するなら、男性の家庭進出も推進しないとバランスがとれない。そして義務を与えるなら、評価もセットにしないと機能しない。という感じかな。とりあえず家事をする男性をきちんと褒めることから始めたらどうだろう。

 

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