スタバでこの世の解釈問題を考える

いつも通ってるスタバで、隣の席に座っている若者2人が、ずっと仕事の悩みや苦労を話していた。何となく聞いたことがある悩みのような気がしたのと同時に、実は自分もサラリーマン時代、同じ悩みを感じてたような気もした。でもなんで悩んでいたのか忘れてしまったし、そもそもその話の内容すら1日たった今日、すでに忘れてしまっている。

忘れてしまったということは、要するにどうでもいい話だったのだろう。

30年以上生きれば、そういう「今考えればどうでもよかったこと」で悩んだり、右往左往していた頃をたまに思い出す。自分の中の劣等感だったり、人間関係のいざこざだったり、当時は一大事のように感じていたが、今考えれば、思い出すのも面倒なほどどうでもいい。

人生は解釈の連続であり、どう解釈するかで自分の生きている世界が形作られる。一つの事象であっても、そこに10人いれば、10通りの解釈があって、10通りの世界が存在している。よって、たいていの問題は、問題自体が問題なのではなく、それを問題だと解釈してしまうことが問題なのだ。

この世のすべての事象は、必ず自分にとって良い部分や悪い部分、関係ない部分など、多面体の構造になっており、この世にはユートピアとディストピアが同時並行で存在しているものだと思う。どちらを選ぶかは、ある程度自分の解釈によって選択できるものであり、解釈の多様性を担保しておくことが、エゴに捕われず自由に生きていくためには必要なのであろう。

この世には、解釈の多様性を駆使して柔軟に生きる人もいれば、一つの解釈に凝り固まって自らを不幸にしてしまう人もいる。僕は前者になれるよう、今日もスタバでコーヒーを飲みながら読書にいそしむのである。

おしまい。

 

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