オリンピック騒動とビジョンの話

オリンピックのエンブレム騒動は、スタジアムと同様、白紙撤回で幕引きとなりました。今回は専門の分野であり、考えることはたくさんあったのですが、まあTwitterを見れば同じようなことを言っている同業者の方々がたくさんいるので、別に書くこともないかなと。

ただオリンピックの一連の騒動を巡る、組織委員会の迷走の背景には、「ビジョンを語れる人がいない」という問題があるのではないか、と思うんですよね。巷では責任者不在の有様を指摘されていますが、僕はトラブルがあった時に頭を下げる責任者ではなく、ビジョンを掲げて舵取りを行う責任者がいないことが、問題の本質のような気がします。

ビジョンとはすなわち思想であり、どういうゴールに向けて、どのようにやっていくか、を方向付けるものです。そういうビジョンを提示して引っ張って行く役がいない組織は、船長のいない船と同じです。ゆえに組織委員会の方々は誰もが一生懸命仕事をしていると思いますが、責任範囲が明確でなく、今回のようにトラブルが起こった際に、適切な対応がとれているようには見えません。

スタジアムであれ、エンブレムであれ、明確なビジョンなしでは、デザインを語る言葉、「なぜこうであるか」の根拠となる文脈を形成することができません。建設費の前に、または盗作の有無の前に、まずは語るべき文脈があって、それを前提とした議論ならば、それなりに有意義なものとなっていたのでしょうが、それが説得力ある形で見えてこないまま、ただ金額や盗作疑惑の話のみが一人歩し、最後は白紙撤回という悲しい結末となってしまいました。

おそらく関わった建築やデザイン関係の方々は、それなりにビジョンを持って事に当たられたのでしょうが、どれもが個人プレー的であり、組織委員会全体の「意志」として国民に提示できたかといえば、NOとしか言いようがありません。こうなっては炎上騒ぎが起きた時に収める術がないし、今後は物が安いか高いかや、外面が好きか嫌いかという浅はかな価値基準のみで決められ、何の意志も思想も感じられない大会になってしまうのではないかと、いささか心配になります。

組織委員会と国民との乖離は、ビジョンという評価軸を提示できるリーダーがいないことが原因だと思うし、これでは一緒に仕事する人たちも大変でしょう。エンブレムは新たに公募するとのことですが、白紙撤回という結果をきちんと説明できる人間もいないどころか、お互いに責任を回避し合っているような状態では、危なっかしくてとても関わる気にはなれません。

 

とはいえ、突然スティーブ・ジョブズのような優れたビジョナーが現れることはないだろうし、国家事業ゆえリーダーが独断で決められる組織ではなく、国民のコンセンサスなくして物事は進められません。

ということは、抽象度を少し上げて考えると、ビジョンがないのは組織委員会ではなく、実は日本全体の問題で、オリンピックはその写し鏡に過ぎないのではないか、という思いもしてきたりします。

1964年のオリンピックを僕は体験していませんが、話を聞く限り、そこには敗戦という手痛い失敗を乗り越え、新たに未来に羽ばたこうとする明確なビジョンがあって、それを日本全体で共有できていた時代のように思うんですね。ゆえに東京オリンピックは戦後史の光り輝くイベントとして記録されていますし、当時のグラフィックを見ても、その勢いは伝わってくるような印象を受けます。

では5年後の2020年の東京オリンピックはどうでしょうか? 僕らにとってどのような意義のある大会なのでしょうか? その意義を語れる国民は、この日本にいるのでしょうか? このブログを読んでいる日本人のあなたはどうでしょうか? 僕は正直、「経済効果はあるんじゃないの」程度しか思い浮かびません。

それで一応今回のオリンピックのビジョンみたいなものがあるのか調べてみたら、ありました。

ビジョン >> TOKYO 2020

これを読んで、僕は日本の状況を如実に表している文章だな、という印象でした。皆さんはこのビジョンをどのように感じますでしょうか?

オリンピックが日本全体の写し鏡だとすれば、今後5年間はいろんなことを、我々日本人に教えてくれるように思います。

 

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