僕らの世界で「LOVE & PEACE」が成り立たない理由

日曜の昼間に面白い記事がTwitterで回ってきたのでブログでも書いてみる。

タモリさんの「戦争が無くならない理由」に鳥肌が止まらない

さすがタモリさん。「戦争が無くならない理由」の本質を見抜いてる。以下に引用する。

戦争が無くならない理由はなんだと思う?

それはな、人間の中に『好き』と言う感情があるからだ。そんなものがあるから、好きな物を他人から奪ってしまう。また、好きな物を奪った奴を憎んでしまう。ホラ、自分の恋人をレイプした奴を『殺したい』と思うだろ?

でも、恋人のことを好きじゃなかったら、攻撃に転じることはない。残念だけど、人間の中に『好き』と言う感情がある以上、この連鎖は止められないんだよ。

『LOVE&PEACE』という言葉があるけど、LOVEさえなければ、PEACEなんだよ。その生き方は、かぎりなく動物や植物の世界に近いな。ただ、『好き』がない世界というのも、ツマラナイだろう? 難しい問題だよ、これは。どうしたもんかね?

こんな記事を読んだので、ちょっとLOVE(愛)と『好き』とについて考えを巡らせてみたいと思う。

西洋の価値観が色濃く根付いているグローバルな世界にあって、キリスト教の掲げる「愛」こそが至上の概念であると考える人は少なくない。「隣人を愛せよ」というキリストの言葉のごとく理解すれば、愛とは「思いやり」や「優しさ」という、利他的な思想の最上位に位置する概念であり、人々が愛を持って生きれば、世界は平和になるというロジックだと僕は理解している。

一方仏教の場合は、「愛」を「渇愛」という欲望と捉え、そのようなものは執着だからやめるよう説く。欲愛・有愛・無有愛という3つの概念に分け、人間の根本的な欲望を説明し、そのようなものに執着しているから、人々はいつまでたっても煩悩から抜け出ることができないということらしい。

この東西の代表的な宗教の「愛」に対するスタンスは一見正反対に見えるけど、「執着せず、迷いを捨てる」という意味では、方向性は同じだと僕は思ってる。

ブッダは、この世のものはすべて流動的で実態がないことを理解し、物事に一喜一憂するのをやめれば、涅槃という自由の境地にいけると説いた。

キリスト教の愛も似たようなところがあり、愛するとはすなわち他人のためにすべてを捧げること、アウシュビッツ収容所で隣人のために身代わりとなって亡くなったコルベ神父のように、自分の命すら神の愛に捧げる覚悟があれば、迷うことはないと説いているように思う。

以上を考えれば、人の崇高な理念の向かう先は、己の欲望から離れ、迷いを捨てたところで見える(と言われている)境地にあるように思う。宗教に出てくる「愛」とは「好き」の延長線上にある言葉ではなく、執着を捨てた境地にある。ならば、先述の「LOVE & PEACE」は矛盾なく成り立つフレーズだと思う。

しかし世間ではやっぱり「愛してる」とは「死ぬほど好き」のようなニュアンスで使われるわけで、煩悩から抜け出せない僕も、息子のようなかわいくてたまらない存在に向けられる愛という感情は、「究極の執着」である、とこの記事に書いた通りだ。

息子のためなら自分の命すら差し出すのも惜しくないくらい愛しいのは、キリスト教的な愛に近いけれども、逆にいえば彼のためならどんな悪魔にでもなれる意味で、煩悩の世界での愛は危険な二面性を帯びている。

そしてその負の側面が必ず戦争という惨劇の根本で機能していることをタモリさんは指摘しているわけで、煩悩の世界で「LOVE & PEACE」は磁石の同じ極同士のように反発しており、むしろ「LOVE & WAR」のほうがぴったりくっついていると考えることは十分できてしまう。

では、煩悩の世界にどっぷり浸かり、キリストやブッダのような聖者にはとてもなれない僕らはどうればいいか。僕は以上のことを理論的に理解しておくことだと思う。聖者的な「愛」と、世間的な「愛」は一緒にせず、別物だと整理して考えたほうがいい。家族の愛とはいうけれど、それによって人生が狂ってしまった人はたくさんいるだろうし、愛国の名のもとにどれだけの犠牲者が出たかは今更言うまでもない。

世に溢れている「愛」が、すべてキリストのいう「愛」だというならば、さすがのキリストでも右の頬を叩いたら左の頬も叩くくらいのツッコミをしたいところだろう(暗喩)。

概念なんてものは、どんなに崇高なものでも、運用するのは所詮不完全な人間である限り、完璧なんてありえない。ゆえに盲目的に迎合すれば、必ず不都合や矛盾が起こったり、うまく利用されたりしてしまうことは歴史の教えだ。そのことを認識し、うまい距離をとれば、ある程度の間違いは防げるように思う。

そして個人的には、愛を構成する自分の中の『好き』は、整理して大切にするべきだと思う。執着するものは適切に選ぶべきだ。その取捨選択こそが自分と向き合う行為そのものだ。

僕にとっての『好き』は今のところ、「家族」と「やりたいこと」だ。
その2つと良好な関係性を築けている限り、僕は満足であり、逆にそれ以外のことはすべて取るに足らないことなので、何があっても大方不満なく、日々平和に過ごせているように思う。逆に『好き』を整理できず、『好き』が多すぎる人や粗末に扱う人、何が『好き』なのかわからないような人は、心の平和を保つのはなかなか大変のように見える。

最終的にはタモリさんとは逆説的な結論に行き着いてしまったが、なんにせよ、自分の中の『好き』もしくは「愛」という感情は、心の地底に存在するマグマのようなもので、福にも災いにもなる極めて流動的なものだという事実には変わりがない。世界であれ、個人であれ、適切な認識と運用なしに平和を保つことは難しい。そして人々は今後もトライ&エラーを繰り返していくことだろう。

キリストの愛やブッダの諸行無常という無欠の概念の前に、僕らは今日も迷える子羊として「LOVE & PEACE」に翻弄されないよう気をつけて生きていくしかない。

 

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